校異から見えてくるもの

 

「もみぢしにけり」の場合は、
まさしく草木の紅葉についてしか言わない言い方であるのに対して、
「色づきにけり」になると少し範囲が広がり、
さらに「うつろひにけり」になると、
盛りのものが次第に衰えてゆくことを自然・人事を含めて一般的に言うようになっている
という事実を基に考えれば、
おそらくは「紅葉《もみぢ》しにけり」が最も古体であり、
次いで「色づきにけり」が古く、
歌語、すなわち文学用語として最も洗練されている「うつろひにけり」
が最も後の段階になってからの改変ではなかったか
と思うのである。
そして、
211・255・782番歌の例について見ても、
他本は「色づく」となっているのに、
俊成本・定家本は「うつろふ」になっているのも同種の事例として興味深い。
このように、
俊成本・定家本は、
『古今集』の原初の形を伝えているとは必ずしも言えないが、
伝わっている本文の中で最も整った、最も文学的な本文を選んで採用している
ことは確かだと言える。
なお、俊成にしても、定家にしても、
みずから本文を捏造することはなく、
伝わっている本文の中から最も適当なものを選んで採用していたことは
数多くの事例から帰納できる。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(上)』講談社学術文庫、2019年、p.936)

 

片桐さんのこの評論は、『古今和歌集』262番

ちはやぶる神の斎垣《いかき》に這《は》ふ葛《くず》も秋にはあへずうつろひにけり

に関してのもの。
「もみぢしにけり」「色づきにけり」「うつろひにけり」が
写本によって違っているというのが先ず面白く、
さらに、違うだけでなく、
クロニクルに
「もみぢしにけり」→「色づきにけり」→「うつろひにけり」
ではないかという考察が興味深い。
その根拠となる大事な観点が、
三つの語のうち「うつろひにけり」が「歌語、すなわち文学用語として最も洗練されている」
というところにあると思われますが、
わたしは正直なところ、
そうかな、
という疑問を持ちます。
取り上げられた用語に具体と抽象の差があり、
また、
具体から抽象へという観念の移行は、
一般的に宜えるとしても、
それが「洗練」という価値を含むかどうかは、
別問題。
一概に言えないのではないか。
「紅葉《もみぢ》す」「色づく」に比べ「うつろふ」が文学的であるように言われると、
反発心がもたげてもきます。
ともあれ、
校異を基にいろいろ想像してみることは一人遊びにはもってこい、
少々マニアックではありますが、
読書の一つの楽しみです。

 

・焼薯を温めなほす夜半過ぎ  野衾