体験は本文、本は索引

 

例えば、中条先生の本には、十四歳くらいの話が必ず出てきます。
私は今四十歳で、
本をちゃんと自分で買って読み始めたのは二十五歳くらいなんです。
ですので、
十四歳の中条先生と、今の私は実は一緒くらいの感覚なんです(笑)。
私の場合、
「とじぇね」ではない寂しさを
インターネットに感じさせられてきたんだと思います。
そこで「物としての本」に出会って、
今はある意味、第二成長期なんです。
生身の本による快楽を、私は今すごく感じています。
(『春風新聞』第28号の特集「『文の風景』刊行によせて」の鼎談より)

 

上の文章は、
本年八月に行った鼎談のなかで、教育学者の末松裕基さんが発言したものからの引用。
対談、鼎談が面白いのは、
そのときその場はもちろんですが、
テープ起こしをし、編集作業を経て、ことばを定着させると、
何度でも読むことができ、
その都度、
いろいろと気づかされるところ。
末松さんは、
二十五歳くらいから、じぶんで買って本を読み始めた。
中条(省平)さんは十四歳くらい。
本を買い、
意識的に読み始めた時期は、
ひとにより、まちまちでしょうけれど、
本を読まなかった時期の体験は、
こんこんと湧き出る泉のようなものか、
とも感じます。
ある意味で意味をはねつけ、
解釈が固定しない。
おそらく死ぬまで。
死んでも、
かも知れず。
本を読むことで、間欠泉のように体験は呼び覚まされ、記憶として一旦は定着します。
しかし、
べつの本を読むと、
また同じ本でも、時を措いて読むことで、
それがきっかけとなり、
同じ一つの体験が、
今までとは違った光芒を放ち始める。
その意味で、体験は本文、
読まれることを待っている。
而して本は、体験を呼び覚まし、深く味わうための索引。
そんなことを思います。
してみると、
結局のところ、
本を読むのは、だれにとっても、
計り知れないじぶんを読み、
じぶんを深く知ることか、
と。
それがきっと、
世界を知ることに繋がると信じ。

 

・売られ行く雪見る馬の眼は涙  野衾