「意」について

 

一九九二年に九十六歳で亡くなった哲学者・教育者に、
森信三というひとがいますが、
森は、
若いころに新井奥邃の文に触れ、
生涯「幻の師」として敬仰したと言われています。
その文とは、

 

隠路あり、照々の天に宏遠の道より開く。クライストの微妙の戸なり。
一息開けて億兆相抱くべし。一息閉ぢて衆星隕越を致さん。
生命の機は一息に在り――意なり。
(「不求是求」1914 『新井奥邃著作集』第6巻、春風社、2001年、p296-7)

 

奥邃のことばには、
その前で佇むしかないようなものが少なくありませんが、
このことばなど、
その最たるものかもしれません。
問題は、
最後の「意なり」の意。
これがどうにも解らない。
後に、奥邃が上の文を再録する際、言い換えてもいますから、
奥邃自身が、
日本人に伝わりにくいと感じていたのかもしれません。
わたしもスッキリしないまま
これまで来てしまいましたが、
白川静の本に親しんでいるうちに、
『字訓』冒頭にある「字訓の編集について」の「同訓異字」の箇所に目が留まった。
「おもふ」と訓する字についての説明で、
そこの箇所を、ぜんぶ引用したいぐらいの気持ちですが、
長くて、そうもいきませんから、
いまの文脈に関連するところだけ引くと、
「おもふ」と訓じられる漢字がいくつかあるなかで、
「憶」の字があるけれど、

 

憶は意に従い、意がその初文であった。
意の字形に含まれている音は、神の「音なひ」「音づれ」をいう字である。
識《し》られざる神の「音なひ」のように、
心の深いところからとどめがたい力を以てあらわれてくるものを意という。
それは自省によって「意《はか》り」、
心のうちに「憶《おも》ひ」おこすものであるから、
追憶のようにも用いる。

 

つまるところ、意は「音なひ」であり「音づれ」である。
福音書の福音は、
good news、良き知らせ、エヴァンゲリオン、
ということになりますが、
奥邃の「意なり」は、
良き知らせ、福音を、奥邃なりに表現したものだと考えられます。

 

・交差点光の暈や冬の朝  野衾