悲しみの目薬

 

パウロの言える如く、人生の苦しみには救いに到らしむる苦しみと、
滅亡に到らしむる苦しみとがある。
人生の目的が真理の探究に向けられて居る時、
すべての苦しみは
「健全なる悲しみの目薬」であって、
それが鋭く目にしみる事によって傲慢の腫脹《はれ》は引いて行く。
之は思想上の煩悶をもつ者に対して、
深き理解と同情の言葉である。
たましいの煩悶は、
神の光を見るに至るまでは決して心を落着かせない。
この内なる刺戟によって落着かせないことが、
既に神の恩恵である。
而して神の秘かなる御手によって悲しみの目薬を注《さ》される中に、
一日一日と真理の光が見えるようになる。
神の存在と、神の善にして不朽不変なることを信じてさえ居れば、
如何に長き且つ深刻なる思想的疑問であっても、
遂に光を見ずに終ることは絶対にない。
そのことをアウグスチヌスは彼の実験によって告白して居るのである。
(矢内原忠雄『土曜学校講義 第一巻』みすず書房、1970年、p.140)

 

ちなみにわたしは、夜、布団に横になった後、目薬を注します。
サンテボーティエという赤い目薬。
以前、赤い目薬がいいと聞いたことがありました。
注したあと目を閉じ、
右回りにゆっくり20回、
左回りにゆっくり20回、
目の運動をすることにしています。
眠るまえのルーティン。
一日ゲラを読んでいると、目も頭も疲れます。
内にひそむ「傲慢の腫脹」にも効いているとすれば、
こんな嬉しいことはありません。

 

・寒鯉の動かずにゐる重さかな  野衾

 

聖書と矢内原忠雄

 

私にも亦之と同じ小さな経験がある。
私が始めて聖書を手にしたのは、中学五年の夏の休暇であった。
私は田舎の家の土蔵の中にて虫干の際に之を発見し、
道徳的知識慾に燃えて読み始めた。
読み方も知らぬ私は、
創世記の第一頁より異常の熱心を以て読み始めたのである。
おお何という奇怪にして不可思議なる文字の羅列であったか!
私は忍耐に忍耐を重ね、
退屈と道徳的反撥心とを抑えながら民数紀略の第二十六章にまで読み至り、
遂に堪えかねて之を投げたのであった。
その後私が再び聖書を取り上げて、
その中に生命と智慧を示されるに至ったのは、
一高二年生の時、
内村先生の門に入るを許されてからである。
(矢内原忠雄『土曜学校講義 第一巻』みすず書房、1970年、p.59)

 

「生命と智慧」に充ちた古典との出会いというのは、
たやすいものでないのかもしれない。
聖書となったら尚更だろう。
矢内原忠雄にして然り。
ちなみに引用した箇所の冒頭「之と同じ」経験の「之」というのは、
アウグスティヌスの経験を指しており、
同書の前頁に、こんなことが書かれている。

 

アウグスチヌスは聖書を読んで見ようとしたが、少し読んで見て、
文章は幼稚であり、内容は神秘的で何のことやら解らない。
取りつく価値のなきもの、
若しくは取りつきにくいものとして、棄てたのである。
すべての事に時がある。
多くの者が始め聖書を解し難しとして、之を棄てることに無理もない。
併し再び之を取上ぐる時が来れば、
聖書は何という解し易き、
又何という「堂々」たる書物であろう。
神はその間に必要なる「時」の準備をそなえ給うたのである。
神は人に智慧を与うるに、
決して急ぎ給わない。
常に十分の準備を以てし給う。
之れは人が一度び得たる智慧を永遠に失わざらんが為めである。
(同書、pp.58-9)

 

「生命と智慧」に触れ、生かされてあることを識るために、
肉体は衰えなければならないのか、
という気もします。

 

・鈴鳴らし杉材運ぶ父の橇  野衾

 

ひじ時計

 

こないだの日曜日、出勤後まずはマッサージチェアに深く腰掛け、
日頃の首や肩の凝りをほぐしてから、
予定していたゲラ読みに取り掛かりました。
その後、Kさん、Yさんが出社し、それぞれの仕事に向かうようでした。
夕刻となり、
ふたりにあいさつをし、ひと足先に退出。
日曜日の電車は、乗客が少なく快適。
保土ヶ谷駅のホームに降り立ち、何気なく、右手が左手首に触れた。
ら、
あれ!?
ん!?
無い。
無い無い。腕時計がない。
朝、ちゃんと、したはずなのに!
待て待て。焦るな。落ち着いて落ち着いて。
(こころの声とは裏腹に、この時点で、そうとう、焦っている)
会社に電話してみる。
「もしもし。三浦だけど、机の上に腕時計、忘れてないかな?」
「ちょっと待ってください。……。無いですね」
とYさん。
「そうか。わかった。ありがとう」
今度は自宅。
「おれだけど、本棚のいつものところに腕時計、忘れてない?」
「ちょっと待って。……。無いよ」
「あ。そう」
ということになり、
焦りはそろそろ絶望へと変貌を遂げるようであった。
なんて。
余裕をかましている場合ではないので、
駅の改札を抜け、こころの汗を額に浮かべながらタクシー乗り場に直行。
一路紅葉坂の教育会館へ。
ほどなく到着。
会社に入る前に、思い当たる節があり、廊下のトイレをチェック。
無い。
会社のドアを開け入室。
Kさん、Yさん、怪訝そう。
目を皿のようにして、というのはこういう時につかうものかと机上を確認。
無い。
無い。
もはや、絶望の沼にどっぷり浸かろうとした、
その瞬間、
われの右手が、左の肘の辺り、なにやら硬いものに触れた。
ん!?
あ!!
あったーーー!!!!!
そうか。
今朝、ひどく寒かったので、
いまは死語と化したとっくりセーターを出し、
頭からかぶったのはいいとして、
手首のところがそうとうきつく、おそらく、
腕時計の中留が外れ、肘の辺りまで押し上げられて、そのままそこで止まっていた、
らしい。
疲れが急にどっと出た。
やれやれ。
老いに入ると書いて「老入れ」
それについての感慨を、無明舎の社長がブログに書いてありましたが、
わたくしも、
老入れの境涯を改めて確認する仕儀となりました。
ふ~。

 

・淡雪や来し方のとき解けて消ゆ  野衾

 

旧約聖書のリアリティ

 

創世記に登場するアダムとイブが今から遡ること約6000年前、
マタイによる福音書の冒頭、イエス・キリストの系図にあるアブラハムが
約4000年前、ダビデが約3000年前ということですから、
旧約聖書には、
新約聖書の時間とは比較にならないほどの膨大な時間における
人間のドラマが描かれています。
多くは、
預言者とそれにまつわる民の物語ですが、
たまに目をみはるような記述があって、
ほんとうに、
歴史上、この世にいた人なのだーと思わずにいられません。

 

ダビデ王は多くの日を重ねて年を取り、いくら服を着せても暖まらなかった。
そこで家臣は王に言った。
「王様のために若いおとめを探し出し、御前にはべらせ、お世話をさせましょう。
彼女が添い寝をすれば、王様は暖かくなられるでしょう。」
家臣は美しい娘を探し求めて、イスラエル領内をくまなく探し回り、
ついにシュネム人のアビシャグを見つけ、
王のもとに連れて来た。
娘はこの上なく美しかった。
彼女は王の世話をして仕えたが、王が彼女を知ることはなかった。
(聖書協会共同訳聖書「列王記 上」2018年、p.511)

 

若いときに、ここを読んだはずですが、ピンときませんでした。
が、
いまこの箇所を読むと、
ピンとくるどころか、
なるほどと深く納得するところ大であります。
ダビデは王様ですから、
家臣たちはダビデに最高級の服を着せたのでしょう。
なのに、
「いくら服を着せても暖まらなかった。」
王様といえども、
いのちに共通する老いを免れることはできません。
このごろホッカイロを愛用しているわたしは、
ホッカイロの温みを通して、
ダビデの体とこころが、
よく分かる気がします。
また引用した箇所の最後「王が彼女を知ることはなかった」
の「知る」とは何か。
大野晋と丸谷才一が『光る源氏の物語』で、
ここは実事があった、いや、なかった、いやいや、あったにちげーねー、と、
議論していて爆笑した「実事」
(事実でなく「実事」。大きい国語辞書だと、三番目ぐらいに出てくる意味がそれにあたるはず)
のことでありましょう。
ちなみに、
文語訳聖書ではこの箇所を
「王 之と交《まじは》らざりき」
と訳している。

 

・父母の上に雪あり眠りあり  野衾

 

希望における幸福

 

神の国の最高善は、永遠で完全な平和であるがゆえに、
すなわち死すべきものが誕生から死に至るまで通過するごとき平和ではなく、
不死なるものがまったく敵対者を耐え忍ぶことなく存続するごとき平和であるがゆえに、
かの生がもっとも幸福であることをだれが否定するであろうか。
またその生に比較すればこの地上で営まれている生は、
たとえいかに魂と身体において恵まれ財産が豊かであるとしても、
悲惨であることをだれが信じないであろうか。
しかしだれであろうと、
もっとも熱心に愛し、
またもっとも確実に希望するかの生の目的に関連づけてこの生を用いるならば、
現実においてというよりも、
むしろその希望において、
今でもなお幸福であると間違いなく言うことができる。
これに反して、
あの希望なしに現実に幸福であるとしても、それは偽りの幸福であり、
大きな悲惨でしかない。
なぜなら魂の真の恵みは、享受されていないからである。
賢明に判断し、勇敢に行動し、ほどよく抑制し、正しく配分する際に、
その意図をかの生
――そこでは確実な永遠性と完全な平和のうちに、神がすべてにおいてすべてである――
の目的へ向けていないならば、それは真の知恵ではない。
(アウグスティヌス[著]金子晴勇ほか[訳]『神の国 下』教文館、2014年、pp.360-1)

 

アウグスティヌスの面目躍如といったところでしょうか。
文に帯びる熱量がすごい!
引用した文の下から二行目の
「神がすべてにおいてすべてである」
は、
パウロがコリントの信徒へ送った手紙(一)の第15章28節にある言葉で、
「万物が御子に従うとき、御子自身も、
万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。
神がすべてにおいてすべてとなられるためです」
の最後の箇所。
御子とはイエス・キリスト。
こんかい『神の国』を再読してまず感じるのは、
あたりまえのことながら、
アウグスティヌスがいかに聖書を読み込んでいるかということ。
希望における幸福、という考えは、
大方の、
幸福を幸福感とみなす考えとは違うようです。

 

・いまぞ知る応援歌歌詞雪皚皚  野衾

 

社交的な運転手

 

先々週ぐらいでしたでしょうか、紅葉坂の交差点付近からタクシーをつかまえ、
乗車したところ、
「ご乗車ありがとうございます。
わたくし、○○交通の△△と申します。よろしくお願いいたします。
タクシー運転手になりたてで、道がよく分からないものですから、
こんなことを申し上げて恐縮ではございますが、
教えていただくと、たいへん助かります」
と、告げられた。
「そうですか。分かりました。とりあえず国道一号線に出ていただいて、
西平沼橋の交差点を左に曲がってください」
「はい。分かりました。あの交差点、西平沼橋というんですね」
「ええ。そうです」
「申し訳ございません。なりたてなもので…」
「いえいえ。たいへんですね」
「いえ。業種は違えど、前の仕事も、接客といえば、接客でしたから」
「そうですか」
「はい。社交ダンスの教師をしておりました」
「は!? 社交ダンスの教師?」
「はい」
「社交ダンスの教師を。それでこんなに社交的…」
「ははは。お客さん、お上手」
「いや。ことば遣い、物腰がやわらかく、
気持ちのいい社交的な運転手さんだと思ったものですから。そうですか。
社交ダンスの教師を」
「はい。社交ダンスは、密なるダンスなもので。
それが三密とかいわれ、密を避けよと高らかに喧伝されると、商売になりません」
「なるほど」
「はい。この道は、しばらくまっすぐでよろしいですか?」
「あ。すみません。運転手さんのお話に、つい聴き入ってしまいました」
「恐れ入ります」
「いえ。はい。左車線をしばらくまっすぐ進んでください」

 

・迷い入る人馬もろとも雪女郎  野衾

 

イタチクショー!!

 

なんてこった!! 秋田の実家のニワトリが、またまた、イタチに殺られた。
おととしでしょうか、
十羽いたニワトリが十羽ともイタチに殺られ、
父と叔父の二人がかりで徹底的に鶏小屋を完備封鎖したのに、
どこから侵入したのか、
一羽の首がもぎ取られ食われてしまったというのだ。
もう一羽は、
足を嚙まれたらしく、
傷を負った。
それでもその一羽は健気に餌を啄んでいたらしい。
八羽は無傷。
にっくきイタチ。
イタチクショー!!
足を噛まれたニワトリが気になったので、
翌日電話で父に尋ねたところ、
うずくまって、
元気なさそうにしている、
けれど、
ちゃんと一日一個の卵を産んでいるのだとか。
父は、
傷ついたニワトリの足に薬を塗ってあげたらしい。
何を塗ったの?
と訊けば、
擦り傷、切り傷に効くニンゲン用の薬を。
馬も牛も豚も七面鳥も、犬も猫もいなくなった秋田の実家で、
ニワトリが唯一父と母の楽しみなのだ。
たのむよイタチクショー!!

 

・十羽ゐる鶏小屋の雪下し  野衾