予表と顕現

 

また、キリストが預言によって自らの受難の屈辱について語っている、
あの詩篇においても同様である。
「彼らはわたしの手と足を刺し貫き、わたしの骨をすべて数える。
彼らは目をとめて、わたしを見つめる」。
(これらの言葉によって、彼は、手と足を刺し貫かれ、釘でうちつけられて、
十字架上にひろげられた身体のこと、
および目をとめ見つめる者たちの見世物になったことを表現しているのである。)
彼はさらに付け加えている。
「彼らはわたしの衣服を分けあい、わたしの着物のことでくじを引く」。
これらの預言がどのように成就したかは、
福音書が物語っている。
(アウグスティヌス[著]金子晴勇ほか[訳]『神の国 下』教文館、2014年、p.233)

 

引用した文中の「彼」とは、
旧約聖書にでてくる預言者ダビデのこと。
アウグスティヌスが引用しているこの驚くべき箇所は、
詩篇第二二篇にあり、
新約聖書において記述される十字架上のイエス・キリストそのままだ。
ダビデは、紀元前1000年のころの人。
こういう事例を引きながら、
アウグスティヌスは、
旧約聖書では覆われている真理が、新約聖書で顕現しているとみているのでしょう。
旧約聖書では、
真理は覆われているけれど、
人間がそれを知るために、
預言者にあずけられた神の言葉として、
予表(あらかじめ表す)されている。
ここに、
アウグスティヌスの歴史の見方、
大いなる歴史哲学があると考えられます。

 

・餅食ふて網に残りの黒きかな  野衾