聖書と矢内原忠雄

 

私にも亦之と同じ小さな経験がある。
私が始めて聖書を手にしたのは、中学五年の夏の休暇であった。
私は田舎の家の土蔵の中にて虫干の際に之を発見し、
道徳的知識慾に燃えて読み始めた。
読み方も知らぬ私は、
創世記の第一頁より異常の熱心を以て読み始めたのである。
おお何という奇怪にして不可思議なる文字の羅列であったか!
私は忍耐に忍耐を重ね、
退屈と道徳的反撥心とを抑えながら民数紀略の第二十六章にまで読み至り、
遂に堪えかねて之を投げたのであった。
その後私が再び聖書を取り上げて、
その中に生命と智慧を示されるに至ったのは、
一高二年生の時、
内村先生の門に入るを許されてからである。
(矢内原忠雄『土曜学校講義 第一巻』みすず書房、1970年、p.59)

 

「生命と智慧」に充ちた古典との出会いというのは、
たやすいものでないのかもしれない。
聖書となったら尚更だろう。
矢内原忠雄にして然り。
ちなみに引用した箇所の冒頭「之と同じ」経験の「之」というのは、
アウグスティヌスの経験を指しており、
同書の前頁に、こんなことが書かれている。

 

アウグスチヌスは聖書を読んで見ようとしたが、少し読んで見て、
文章は幼稚であり、内容は神秘的で何のことやら解らない。
取りつく価値のなきもの、
若しくは取りつきにくいものとして、棄てたのである。
すべての事に時がある。
多くの者が始め聖書を解し難しとして、之を棄てることに無理もない。
併し再び之を取上ぐる時が来れば、
聖書は何という解し易き、
又何という「堂々」たる書物であろう。
神はその間に必要なる「時」の準備をそなえ給うたのである。
神は人に智慧を与うるに、
決して急ぎ給わない。
常に十分の準備を以てし給う。
之れは人が一度び得たる智慧を永遠に失わざらんが為めである。
(同書、pp.58-9)

 

「生命と智慧」に触れ、生かされてあることを識るために、
肉体は衰えなければならないのか、
という気もします。

 

・鈴鳴らし杉材運ぶ父の橇  野衾