理性のない動物には、与えられた境遇を思いめぐらすことはできないが、
その動物でさえみな、
巨大な海の怪物からもっとも小さな蛆にいたるまで、
存在することを欲し、
それゆえ可能な限りのあらゆる運動をもって消滅を避けようとしているではないか。
なぜか、樹木も灌木もみな、
見える運動によって滅亡を避けるための感覚を持っていないが、
樹頭の若芽を安全に空中へ伸ばすために大地に根を深くおろし、
それによって養分を吸収し、
そのようにしてそれぞれの仕方で自分の存在を保持しているのではないだろうか。
最後にまた、
感覚だけでなく、
どんな生殖の生命をも持たない物体でさえ、
高い所に昇ったり、低い所に沈んだり、
あるいは中間に浮遊したりして、
その本性にしたがって存在しうる場所で、自己の存在を維持しているのである。
(アウグスティヌス[著]金子晴勇ほか[訳]『神の国 上』教文館、2014年、pp.572-3)
引用した箇所を読んだとき、
マタイによる福音書6章26節のことばを思い出しました。
「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」
アウグスティヌスが上の文を書いたとき、
ひょっとしたら、
マタイによる福音書のこの文言を思い浮かべたかもしれない。
そんなことを思い浮かべながらの読書は楽しく。
アウグスティヌスは相変わらず理屈っぽいわけですが、
理屈の底に、
深く静かな情愛が湛えられていると感じられ、
(そういう風景を、初めて読んだときは、見逃していたかもしれません)
たとえば、
ハンナ・アーレントも、この文を読んだのかと、
灌漑も一入で、
やはり、
再読有益なりと言いたい。
ちなみに
「巨大な海の怪物」とは、
旧約聖書に登場する海の怪物レヴィアタン。
・着膨れて物思ふ吾は哲学者 野衾