東京学芸大学の末松裕基先生から電話がありました。
『春風新聞』第28号のお礼を兼ねてのものでしたが、お礼を申し上げたいのはわたしの方で。
学習院大学の中条省平先生と三人で行った鼎談は、
あとからあとから思い返し、
イメージがそのたびに広がります。
末松先生も、同様の感想を持たれているようでした。
講演に招かれた場で、
拙著のなかの、
たとえば、
諸橋轍次のエピソードを紹介したことを楽しそうに教えてくれました。
諸橋さんが、山形の講習会を終えての帰り、
土地の人が用意した馬に乗って四方の里を見おろしながら進んでいたとき、
ひとりの児童が馬上の諸橋さんを見上げ、
あっかんべをした。
諸橋さんは、
「その児童がかわゆくてかわゆくてたまらなかった。」
そんなエピソード。
末松先生と話をしていて、
わたしも拙著に記したその箇所を思い出しました。
話ながら、
新井奥邃のことばが不意に浮かび。
その場で正確なことばは思い出せなかったけれど、
奥邃の言わんとするところは、
要するに、
勉強は、
謙虚を学ぶためのものであって、
エラくなるためのものではない、ということ。
この世でエラくなるための勉強は、どうやらなんだか尻すぼみ。
諸橋さんの勉強も、
奥邃と同様に、
謙虚を学ばんとするところに最高の意義があった
のではないか。
『老子』の「容《い》るれば乃ち公なり」
を
諸橋さんは、
幾度も噛みしめたようです。
胸を開いて相手を受け容れることができるか、
そこに智慧が要るのかもしれません。
・巾着を揺らし登校冬の道 野衾