『神の国』再読

 

きっかけは、小野寺功先生の手紙でした。
拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』
に触れ、
「アウグスティヌスの『告白』は面白いが、『神の国』は理屈が多く面白くない
とありました。私は『神の国』で卒論を書きましたが、
あれは最初の「歴史哲学」で、
半世紀以上経過して、やっとその切実さがわかるようになりました。」
という文言があり、
これに目が留まり、赤鉛筆で傍線を引きました。
わたしが読んだ『神の国』は、
岩波文庫に入っている服部英次郎訳のものですが、
2014年に、
教文館からA5判上製、上下二冊、新しい訳で出ているのを知っていましたので、
それを求め積読状態にしていたところ、
小野寺先生から、うれしく、また、ありがたい手紙をいただいた
ことをきっかけに、
先月から、
朝の時間に読み始めました。
訳者が異なることによる印象の違いがあるかもしれません
が、
それよりも、
おそらく、
通勤の行き帰り、
電車のなかで細切れの時間で読むのと、
お気に入りのソファに深く腰を落とし、じっくり味わいながら読むのとでは、
自ずとその意味合いが違ってくるようです。

 

プラトンは、哲学者《フイロソフオス》とは神を愛する者《アマートル・デイ》のこと
であると言っているが、
聖書の中にこれほど輝かしい言葉はほかにない。
そして(プラトンはそうした文書〔聖書〕を知らなかったはずはない
と同意するよう多くの事柄がわたしを導くのであるが)
その中でも最も注目すべきものは次のことである。
すなわち、
神の言が天使によって敬虔なモーセに語られ、
モーセがエジプトからヘブライの民を解放する計画をたてるようにと命じたそのかたの
名前を尋ねたとき、
「『わたしは、在って在る者』である。
『わたしは在る』というかたがわたしをあなたがたのところへつかわされましたと
イスラエルの民に言いなさい」と答えがあったことである。
いわば、その意味は、不変であるがゆえに真に存在しているかたに比べて、
可変的に造られているものは〔真に〕存在しているのではないということである。
プラトンは、
こうした真理を強く支持し、非常に熱心に推賞している。
そして、
こうした真理は、「『わたしは在って在る者』である。
『わたしは在る』というかたがわたしをあなたのところへつかわされましたと彼らに言いなさい」
と言われているこの〔聖書の〕箇所以外に、
プラトン以前の人々の書物のどこかに見出されうるか、わたしは知らない。
(アウグスティヌス[著]金子晴勇ほか[訳]『神の国 上』教文館、2014年、pp.396-7)

 

18~19世紀のドイツの敬虔主義神学者で、
直感の冴えた人物であったと思われるシュライアマハーは、
プラトンの書物に親しみ、つぎつぎドイツ語に翻訳していきましたが、
その仕事を思い浮かべつつ、
引用した箇所を読み、
いろいろと感じ、また、考えさせられました。
新井奥邃(あらい おうすい)は、
「再読無益なり」ということばを遺しているけれど、
それは、
ある文脈のなかで言われ、
その文脈においては意味のあることばであっても、
読書全般に関してなされた発言ではないはず。
やはり、
本は、再読有益なり、と言いたい。
『新井奥邃著作集』を監修してくださった工藤正三先生も、そう仰っていたっけ。
奥邃先生もきっと認めてくれるでしょう。
『神の国』再読の密やかな、しかし強く、大きな、
もう一つのきっかけは、
教文館発行のシリーズ「キリスト教古典叢書」が、
ことし七月に亡くなられた桂川潤さんの装幀になることです。
桂川さんの仕事を手にとり、
桂川さんの温顔を思い浮かべ、
桂川さんとも対話しながらの読書です。

 

・ポケットのなか拳骨の寒さかな  野衾