耳の文化と目の文化

 

このごろ思うところがありまして、
宮澤賢治のものをあれこれ読み返していたところ、
秋田生まれの
田口昭典(たぐち あきすけ)さん
という方の
『縄文の末裔・宮沢賢治』(無明舎、1993年)
という面白そうな本があることをネットで知りました。
さっそく古書で求め、読みました。
書名にあるとおり、
宮澤賢治が縄文の魂を持った詩人、童話作家である
ことを考察したものですが、
いろいろと共感し、
ふかく納得するところがありまして。
唐突ですが、
わたしのいまの問題意識は、
「耳の文化と目の文化」
であります。
縄文時代とそれ以前が「耳の文化」なら、
弥生時代以降は、
現代をふくめ、
基本的に、
「目の文化」ではないかと。
漢字が日本に伝えられたのは、
弥生時代の末期から古墳時代にかけてと言われており、
文字以外にも、
縄文と弥生では、
いくつか対比の視点があるようですが、
文字を知っている、文字を知らない、
という違い(その根底にある自然との付き合い方)
は、
これからの地球環境と、
そこにおけるいのちの営みを考えるうえで、
ほかのこと以上に大きなことのように感じます。
宮澤賢治の詩や童話に頻出するオノマトペと岩手の方言は、
賢治が耳の文化、
縄文の申し子であることの証であると思います。
いきなりですが、
星野道夫さんや畑正憲さんは、
二人とも多くの本を書いていますが、
根本は、
目よりも、耳のひと、
という気がします。
星野さんの愛読書の一つに、
アルセーニエフの『デルスウ・ウザーラ』があり、
生前、
星野さんがこれをボロボロになるぐらい読んでいたというのも、
なるほどと納得しました。
デルスウ・ウザーラは、
ナナイ族の猟師の名前。
それがそのまま作品のタイトルになっています。
弊社からこれまで四冊の本を上梓している小野寺功先生の「大地の哲学」、
梅原猛さんの構想、山折哲雄さんの賢治論、赤坂憲雄さんの「東北学」、
また、ガイア・シンフォニーの考え方と映像、
それらが深い処で交響し、しずかに鳴っているようです。

 

・口開けて鏡に白き歯の寒し  野衾

 

たのしい『和漢三才図会』

 

思うに、野豬《いのしし》は怒れば背の毛が起《た》って針のようになる。
頸《くび》は短くて左右を顧みることはできない。
牙に触れるものはなんでも摧《くじ》き割ってしまう。
もし猟人のために傷つけられ去っていこうとしているときに、
人が野豬をののしって、
「汝、卑怯者よ、どうして逃げて行くのか、引き返せ」
というと、
大へん怒ってすぐに引き返してきて、進んで人と対し勝負を決する。
それでこれを勇猛な勇士にたとえる。
ただ鼻と腋とを傷つければたおれ死ぬ。
(寺島良安[著]島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳[訳注]『和漢三才図会 6』東洋文庫、
平凡社、1987年、pp.67-8)

 

『和漢三才図会』は、
中国、明の時代の王圻《おうき》撰による『三才図会』に示唆を得て書かれた
江戸時代の、
天地万物についての、いわば百科事典。
鍼灸の天才・澤田健が弟子に語ったことばを録した『鍼灸真髄』
のなかで、
澤田先生、『和漢三才図会』を評し、
あのような名著は、
一度読んで済むものではなく、何十回、何百回でも読んで、
学ばなければならない、
みたいなことを語り、
弟子は、
そのことばを緊張した面持ちで聴いたふうでしたから、
それなら、ということで読み始めました。
18巻ありますから、
まあゆっくり。
と、
いたって真面目な書きぶりのなかに、
真面目な書きぶりだからこそ、なんとも滑稽で、噴き出してしまう記述に出くわし、
いい気晴らしになります。
著者は寺島良安。
一説に、
生まれは、いまの秋田県能代市
とのことですが、
同県出身者のわたしとしては、
こんな面白いものを書くひとが先輩にいたということで
誇らしい気持ちになるけれど、
どうも、
はっきりしないところがあるようです。

 

・呆として百年老いぬ冬ぬくし  野衾

 

珈琲の本

 

宗教は往々人を酩酊させ官能と理性を麻痺させる点で酒に似ている。
そうして、
コーヒーの効果は官能を鋭敏にし洞察と認識を透明にする点でいくらか哲学に似ている
とも考えられる。
酒や宗教で人を殺すものは多いが
コーヒーや哲学に酔うて犯罪をあえてするものはまれである。
前者は信仰的主観的であるが、
後者は懐疑的客観的だからかもしれない。
芸術という料理の美味も時に人を酔わす、その酔わせる成分には前記の酒もあり、
ニコチン、アトロピン、コカイン、モルフィン
いろいろのものがあるようである。
この成分によって芸術の分類ができるかもしれない。
コカイン芸術やモルフィン文学があまりに多きを悲しむ次第である。
コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまった。
これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果
であるかもしれない。
(『こぽこぽ、珈琲』河出書房新社、2017年、p.44)

 

く~! きざだね~!
ま、
寺田寅彦だから許してやるか。
文の終わり方がきざだとは思いますが、
引用した箇所前半の
「コーヒーの効果は官能を鋭敏にし洞察と認識を透明にする」
ということに関してはまったく同感です。
本を読んでいて
(とくに論理的であることを信条にしているような本を読んでいて)、
少々疲れてきたな
と感じ始めた頃合いに手に取る本、
というのがいくつかありまして、
『こぽこぽ、珈琲』は、そのなかの一冊。
31篇のコーヒーにまつわるエッセイが収録されている。
手に取ってぱらぱらめくり、
指の勢いにまかせ、指の気分で止まったところのページに目を落とす。
まえに読んだ文でも気にしない。
引用した文を含む寺田寅彦のエッセイのタイトルは、
文中にも出てきた「コーヒー哲学序説」で、
岩波文庫『寺田寅彦随筆集 第四巻』から採られています。
さてと。
わたしも、ここらで珈琲を淹れるとするか。
く~!

 

・もういいかい暮れゆく冬のかくれんぼ  野衾

 

ことばに立ち止まる

 

終始私の仕事を見守り激励して下さっている宮沢清六氏に深い謝意を捧げたい。
旧版のときからそうだったが、
「たいていのところが大事」
というおことばを私はずっと呪文のようにつぶやいてきた。
すると私には元気が湧いた。
旧版の序文でも書いたが、
それはすくなくとも文学の研究者への頂門の一針とも思われる
清六氏の以下のおことばの要約であった。
――根ほり葉ほり調べることも大事でしょうが、
これだという極《き》め込みはできないのですから、
たいていのところでとめておく、
というのが、
まずはいいのではないですか。……
(原子朗『新宮澤賢治語彙辞典』第2版、東京書籍、2000年、p.7-8)

 

辞書、事典と名の付くものがどうやら好きで、
『広辞苑』を買ってもらったか、
はたまたじぶんの小遣いで買ったか、
忘れてしまいましたけれど、
(いや、百科事典の『ジャポニカ』のほうが『広辞苑』より前だったかな)
それを初めとして、
いろいろな辞書、事典類を買っては身近に置き、
必要に応じて、
引いたり調べたりしてきました
(辞書、事典類は、読むというより、引いたり調べたりするものと思ってきた)
が、
白川静の字書三部作(『字統』『字訓』『字通』)
の巻頭文を読んで以来、
辞書、事典類の巻頭文というのは、
それを作ったひとの、謙虚なこころ、熱きこころざしが、
緊張をともなった文とともに記されており、
そういう文にふれると、
なんとなく、
元気の源が刺激されるようで、
わたしも、
じぶんに与えられた仕事を頑張ろう、
と励まされます。
『宮澤賢治語彙辞典』はその後、
版元が変り、
いまは『定本宮澤賢治語彙辞典』が市中に出ていますけれど、
わたしが持っているのは、
そのまえの東京書籍版で、
東京書籍に対する著者の気持ちも、
なるほどとうなづけるところがあります。
まえがき、はしがき、巻頭文
を含め、
これぞと思う辞書、事典類をゆっくり読むと、
まえがき、はしがき、巻頭文
が光源となり、
先人の書物に対する情熱が、ひしひしと、伝わってくる気がします。

 

・鏡の吾《あ》十歳《とお》は若かりマスクして  野衾

 

「意」について

 

一九九二年に九十六歳で亡くなった哲学者・教育者に、
森信三というひとがいますが、
森は、
若いころに新井奥邃の文に触れ、
生涯「幻の師」として敬仰したと言われています。
その文とは、

 

隠路あり、照々の天に宏遠の道より開く。クライストの微妙の戸なり。
一息開けて億兆相抱くべし。一息閉ぢて衆星隕越を致さん。
生命の機は一息に在り――意なり。
(「不求是求」1914 『新井奥邃著作集』第6巻、春風社、2001年、p296-7)

 

奥邃のことばには、
その前で佇むしかないようなものが少なくありませんが、
このことばなど、
その最たるものかもしれません。
問題は、
最後の「意なり」の意。
これがどうにも解らない。
後に、奥邃が上の文を再録する際、言い換えてもいますから、
奥邃自身が、
日本人に伝わりにくいと感じていたのかもしれません。
わたしもスッキリしないまま
これまで来てしまいましたが、
白川静の本に親しんでいるうちに、
『字訓』冒頭にある「字訓の編集について」の「同訓異字」の箇所に目が留まった。
「おもふ」と訓する字についての説明で、
そこの箇所を、ぜんぶ引用したいぐらいの気持ちですが、
長くて、そうもいきませんから、
いまの文脈に関連するところだけ引くと、
「おもふ」と訓じられる漢字がいくつかあるなかで、
「憶」の字があるけれど、

 

憶は意に従い、意がその初文であった。
意の字形に含まれている音は、神の「音なひ」「音づれ」をいう字である。
識《し》られざる神の「音なひ」のように、
心の深いところからとどめがたい力を以てあらわれてくるものを意という。
それは自省によって「意《はか》り」、
心のうちに「憶《おも》ひ」おこすものであるから、
追憶のようにも用いる。

 

つまるところ、意は「音なひ」であり「音づれ」である。
福音書の福音は、
good news、良き知らせ、エヴァンゲリオン、
ということになりますが、
奥邃の「意なり」は、
良き知らせ、福音を、奥邃なりに表現したものだと考えられます。

 

・交差点光の暈や冬の朝  野衾

 

応答なしという応答

 

仕事でもプライベートでも、こちらの働きかけに対して返事がもらえないのは、
不安になるものです。
あとから、
返事をくださるのを、相手がただ単に忘れていただけ
と知る場合もありますけれど、
当の本人もよく分からない理由から返事しなかった、
というようなこともあるのでは。
むしろ、その方が多いかもしれません。
たとえば、
挨拶一つとっても同じことが言えそうです。
こちらが挨拶しているのに、相手から挨拶を返してもらえなければ、
あれ、どうしたのかな?
と感じることがあります。
そのひとの癖ということもあるでしょうが、
挨拶を返したくない、ということだってあるかもしれない。
また、ただなんとなく、
ということも。
この「ただなんとなく」が恐ろしい。
行為の理由を本人が分からないのに、他人が分かるはずがない。
いや。
本人が分からないことを、
他人だから気がつく、分かる、
ということがあるかもしれない。
返事がないという返事、
応答なしという形の応答、
それがもしかしたら一つの結論。
こころ静かに、よく考えたいと思います。

 

・綿虫や夢の光を連れ来る  野衾

 

幽遠の秘境に分け入る

 

数年前からこの書の新訳を発願し、そのために主なアラビア語原典や、
この説話集についての諸研究、および、すでに公刊された先人たちの翻訳書など、
なにくれとなく集めてみた。
しかしこの仕事は遅々として進まず、
日暮れて途遠しの感しきりであるが、
このものに対する興味が少しも減退しないのは、
まことに無限の興味をたたえた深山か大湖のごとき文献であるからでもあろう。
はじめての連山にわけ入り、
つづら折りの小径をのぼり、
野草の花の咲き乱れた山頂に佇んだり、険しい坂路を下りて、
渓流のほとりに坐り、
やぶ鶯の歌に耳を傾けたりするのは
楽しいものである。
この小著は、
アラビアン・ナイトの世界の
ほんの一隅をたどった夏のある日の記録にも譬うべきものであるかもしれぬが、
私としては、
さらに幽遠の秘境にわけ入る足がかりとしたい念願
をこめたものでもある。
(前嶋信次『アラビアン・ナイトの世界』平凡社ライブラリー、1995年、pp.10-11)

 

この本はもともと、1970年10月、講談社現代新書として刊行されたもの。
わたしの手元にあるのは、
それの復刊。
『アラビアン・ナイト』の日本語訳は、
英語、フランス語からの翻訳がいろいろあるなかで、
日本で初めてアラビア語原典から翻訳したのが前嶋信次さん。
東洋文庫に入っている『アラビアン・ナイト』は、
別巻を含めすべて所持していますが、
1~6までを読み、
いま振り返れば、そこで息切れしたか、
はたまた、
これは一気に読むような本ではない、と思ったか、
とにかく、
6巻まで読んで、
のこりは読まずにそのままになっています。
それがどういう関心の巡りか、
そろそろのこりを読んでみようかな、
という地点にたどり着いた?
の感があり。
たとえば、
前嶋信次、諸橋轍次、白川静、関根秀雄、石川理紀之助などの経歴にふれ、
その方々の書き残した書物をなぞっていくと、
時間の使い方に共通したところがあると感じます。
敬仰する先人たちの清々しい霊峰を仰ぎ見、
いただいた命の限りを、
ひたすらに、楽しんで生き切りたい。
読むのも、作るのも、
このごろやっと、
落ち着いて本に関わることができるようになった、
気がします。

 

・セブン前売れずや冬のシクラメン  野衾