多くの人が、いろいろなところで引用し、解説もするミシェル・フーコーの、
『言葉と物』を読んでみて、
噂にたがわず、
頭のいい人だなと思いました。
つぎに、
フーコーの死後しばらく経って最終の第四巻が出たのを機に
『性の歴史』を読みはじめた。
第一巻と第二巻では、
原著の発行において八年の時が挟まれ、
訳者が違っているせいもあるかもしれませんが、
とにかく、
一巻目の『知への意志』では「頭のいい人」の印象は依然変らずでありましたが、
二巻目の『快楽の活用』では「頭のいい人」に加えて、
どういえばいいのか、
うまい言葉が見つかりませんが、
肉声が聴こえてくるような、
とでも申しましょうか、
ギリシャ古典を引き合いに出しながら、
記述のうちから、
これまでと違ったある緊張感が伝わってくる気がします。
『性の歴史』の当初の構想が大きく変更になったことからもうかがえるように、
八年の間に、
フーコーに、目に見えてか、見えないでか、
ともかく、
なにかあったのかもしれません。
トーンが変った。
本気の本がいつもそうであるように、
二巻目のこの本には、
逡巡とともに、
「わたしとは何か」が詰まっているように思います。
・日の暮れて蟻一匹の重さかな 野衾