本とリンゴ

 

子どものときに本を読まなかったわたしが高校生になって本を読むようになり、
その後、
本づくりを生業にするようになったことについて、
これまでいろいろ、
書いたり話したりしてきましたが、
いま用意している拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』
に収録する跋文として、
敬愛する学習院大学教授の中条省平先生がお書きくださった原稿を読み、
あらためて、
わたしの本に関する身体感覚に思いを馳せました。
わたしが秋田に住んでいたころ、
リンゴを食べるとき、
包丁を使うことはもちろんありましたが、
包丁を使わずに、
リンゴの皮をズボンにこすり付け、
磨き、
それからリンゴを両手で持ち、
両手の親指をリンゴの上の窪み(梗窪《こうあ》と呼ぶらしい)に押し当て、
身体を中腰にし、
膝にリンゴをあてがい、
腰を入れ、ぐぐっと力を入れてリンゴを二つに割ることが、
間々あったと記憶している。
若かった父も、
力が強かった祖父も、
そうやってリンゴを割ってくれたから、
わたしも真似してそうした。
そうとうの力が要った。
二つに割れたリンゴは、みずみずしい飛沫が飛び散り、
まな板の上のリンゴを包丁で行儀よく切ったときとは違った美味しさがあったと思う。
その感覚は、
いまもわたしの指先に残っている。
紙の本を両手で持ち、
ノドのところをぐっと押し開くとき、
リンゴを二つに割ったときの快感がよみがえる。
それはさらに、
エロティックな連想にまで直結する。
芯と真。
かつて、敬愛する詩人から、
「どんな本が好きなの?」
と訊かれ、
ああ、ジャンルのことをおっしゃっているのだなとは思ったけれど、
わたしは、
「はい。分厚い本が好きです」
と応えて詩人に笑われ、
それでわたしも満足した。
が、
分厚い本が好きな「好き」の根底に、
リンゴを二つに割るときの体感があることに、
中条先生の原稿を拝読し、
いまそのことに思い至った。

 

・五月雨や男三人軒の下  野衾