トークのつづき

 

昨日、
つきあいのある大学の先生のお声がかりで、
リモートによる講義によばれ、話す機会がありました。
読書についていろいろ話すなかで、
ドストエフスキーの『罪と罰』中、
殺人を犯したラスコーリニコフと娼婦のソーニャについて触れながら、
『聖書』にでてくるラザロの復活のシーン
を取り上げました。
死んだラザロについて、
姉妹のマルタがイエスに向かい、
「主よ、もう臭います。四日もたっていますから」
と告げる。
墓から石を取り除けさせたイエスは、
「ラザロ、出てきなさい」
と大声で叫ばれ、
死んでいたラザロは、
手と足を布で巻かれたまま出て来たと「ヨハネによる福音書」に記されてます。
そこの箇所を紹介しましたが、
それとの関連でわたしがつねづね感じていることがあり、
ひょっとしたら、
きのう話を聞いてくれた学生さんの中に、
このブログを読まれる方があるかもしれないと想像し、
以下に書き残すことにします。
日本では、
著者の名前や発行年、発行元などの書誌情報を記した「奥付(おくづけ)」を、
本や雑誌の最後のページに入れるのがふつうです。
この「奥付(おくづけ)」ですが、
これと似たことばに「奥都城(おくつき)」があります。
こちらは、上代における墓、
あるいは、
神道式の墓のことで、
「奥付(おくづけ)」と「奥都城(おくつき)」では
とくに関連が無いのかもしれませんが、
わたしは、
本の「奥付(おくづけ)」は、
読みだけでなく、
意味からいっても、
「奥都城(おくつき)」=墓に似ていると感じています。
『聖書』はもとより、
プラトンでも、アリストテレスでも、
また『万葉集』でも『源氏物語』でも、
作者はとっくに亡くなっており、本はいわば墓のようなものであるけれど、
本を手に取り、ページをひらけば、
千年、二千年、いや、それ以上前に亡くなった人の魂がよみがえり、
いま現在のわたしに生き生きと語りかけてくる。
そういう視点からいうと、
「奥付(おくづけ)」のある本の風景が、
またちがって見えてきます。

 

・保土ヶ谷の川も蕎麦屋もさみだるる  野衾