解釈学への誘い

 

上下で2400ページを超えるディルタイの『シュライアーマッハーの生涯』を
ようやく読み終わりました。ふ~。
下巻の解説は、
竹田純郎さんと三浦國泰さんのふたりで執筆していますが、
三浦さんの解説のなかでとくに目を引き、
つぎの読書へのきっかけをいただいた
と思える箇所を引用します。

 

今、われわれがディルタイの『シュライアーマッハーの生涯』に対峙するとき、
たとえシュライアーマッハーやディルタイに対して批判的、対決的な立場にあるにせよ、
ガダマーの思索の基盤がディルタイの
『シュライアーマッハーの生涯』にあることは歴然としている。
ガダマーの『真理と方法』がプラトンの対話術、
ヘーゲルの弁証法と合流しながら、
解釈学の本流として現代に引き継がれているのは明白である。
(『ディルタイ全集 第10巻 シュライアーマッハーの生涯 下』法政大学出版局、
2016年、pp.1190-91)

 

ディルタイによる「シュライアーマッハー研究」は、
われわれに存在の忘却を警告していると言っても過言ではない。
なぜなら、
むしろ体系から漏れた未完の断章の部分にこそ、
ディルタイの「生の哲学」が生動的に息づいているからである。
われわれはディルタイの息づかいに、
繊細かつ慎重に聞き耳を立てなければならない。
解釈学的文献学の循環的な真髄はそこにあるはずである。
(同書、p.1192)

 

・読初の寄り来る一語一語かな  野衾

 

ビーチサンダル祭

 

このごろはけっこう夢を見ます。
初夢はもうすっかり忘れてしまいましたが、
きのうも見ました。
矢沢永吉さんがけっこう出ずっぱりで、
夢の中でもいいひとぽかった、
じっさいに会ったことはありませんけれど…。
そんで、
こうして目が覚めてみると
変だなと思えるのは「ビーチサンダル祭」
その会場に入るには、
ビーチサンダルを履いていることが条件らしく、
若いひとは
事前にそれと知っていて、
かわいらしいじぶんに合った色とりどりのビーチサンダルを履いています。
わたしのようなオジサンは、
あわてて会場近くの店で調達。
上はふつうの恰好なのでいかにも似合わない。
とはいっても、
会場に入りたい気持ちに負け、
不本意ながら似合わないビーチサンダルを履いて会場入り。
場面はそれからころころ変わりました。
のこっているのは、
あぁ面白かった! の記憶だけ。

 

・洗ひ馬背に湯気の立つ冬の馬屋  野衾

 

長嶋監督とモーツァルト

 

岡田暁生さんの『音楽と出会う 21世紀的つきあい方』を読んでいたら、
指揮者の井上道義さんのエッセイについて触れていて、
おもしろいので、
孫引きになりますが、
紹介したいと思います。

 

最近あるコンサートのプログラムでたまたま、
指揮者の井上道義によるモーツァルトについてのエッセイに出会った
(サラ・デイヴィス・ビュクナーによるモーツァルト・ピアノ・ソナタ全曲演奏会、
二〇一八年九月、京都府民ホール・アルティ)。
まさにモーツァルトの音楽のこの二重底性について語った、
素晴らしい文章である。
いわく
「彼の音楽を演奏するとき、一番大切なのは『多くの表現が二重底の内容を秘めていること』
を知ることだ。
以前、
元気なころの長嶋監督と読売交響楽団のコンサート後の対談の時、
立教時代や巨人に入ったばかりの時、
よくモーツァルトを聴いていて、
同じ曲が、
ある時は自分を元気づけ、
ある時はあちらから悲しげに共感を求めてくるのが不思議だったと言って、
そのあまりに当を得たモーツァルト像に驚嘆した。
そう、
楽しいのに寂しい、強いのに壊れそう、
得意げなのに自信なげだったりする……」。
究極の絶望が至福の表情を浮かべる、
楽しいのに寂しい、強いのに壊れそう――
こうした音楽の深淵をまじまじのぞき込むのは怖いことだ。
(岡田暁生『音楽と出会う 21世紀的つきあい方』世界思想社、2019年、pp.126-127)

 

・読初の古書の誤植の逆さかな  野衾

 

あきたびじょん

 

わが郷土の秋田県が平成22年度から取り組んでいる
イメージアップ戦略の名称
「あきたびじょん」
その新しいポスターが昨年11月に完成したとのことで、
年末に帰省した折、
駅の待合室を初めあちこちで目にしました。
それが下の写真。
写真上部には「Any bad kids?」の文字。
撮影したのは、
フランスの写真家シャルル・フレジェ氏。
いつも見ているナマハゲが
どこか異国の雰囲気を醸し出しているように感じられるのは、
撮影した写真家の背景にある文化の違いか。

 

・大旦背(せな)に重なる月日かな  野衾

 

たいくつだなぁ

 

ソファに父とならんで座っていた母がそう言った。
すると、
父がやおら立ち上がり、
テレビの横の駄菓子が置かれたコーナーに歩いていった。
ここまでは、
母の「たいくつだなぁ」と
父の動作に関連があるとは夢にも思わなかった。
さて父は、
駄菓子の中から、
「でん六 味のこだわり」を取り出し
母に渡したのだった。
父はにこにこしている。
はは~。
なるほど。
「たいくつだなぁ」はどうやら、
「たいくつだから、でん六「味のこだわり」の小袋をとってくれ」
の後半の部分の省略形のようなのだ。
母に「そうなのか?」
と尋ねたところ、
「んだよー」と。
「んだよ」は秋田弁。
「そうだよ」の意。
母は、
「さがなっコ、さんびぎ入っていだ!」と、
うれしそうに言いながら、
でん六「味のこだわり」をポリポリ食べている。
父はただ笑っている。

春風社はきょうが仕事始め。
本年もよろしくお願い申し上げます。

 

・故郷やびりりと青き大旦  野衾