幸福と幸福感

 

幸福感は主観的なものである。
どういう条件が整えば幸せか、と論じること自体ナンセンスなことなのだろう。
そうだとしてもその主観のもち方として、
それぞれの状況すなわち欲望充足度の歪さを受容する姿勢をもつこと
が得策であるとはいえそうである。
……話をぶち壊すようであるが、
私個人としては、
「幸福」、
つまりは「幸福感に浸ること」を最高のターゲットとして暮らす生き方そのものが、
実は、大変危ういことだと考えていると書き添えておきたい。
(『小椋佳 生前葬コンサート』朝日新聞出版、2013年、p.43)

 

11日の土曜日、鎌倉を歩いていたとき、
知人が
「昼から焼き鳥をつまみに飲めるなんて幸せね」
と。
見れば、
店の前のテーブルに外国からの旅行客だろうか、
数名がパイプ椅子に腰かけ、
あつあつの焼き鳥を頬張りながらビールを飲んでいた。
幸せか…。し・あ・わ・せ。
シワとシワを合わせて…なんてCMもあったな。
シアワセってなんだっけってCMも。
上の引用は、
たまたま読んでいた小椋佳の本に出てきた言葉です。
小椋さんは、
「幸福」=「幸福感に浸ること」を前提に考えているようですが、
そのことに同感するわたしがいる一方で、
そうではないだろうと抗いたい気持ちもあります。

 

・農の手の栞紐置く初日記  野衾