宗教と哲学

 

分けよ! 宗教と哲学を――この両者がまず第一に重要であったのだ――、
これらは二つの分かたれた事柄である。
それゆえに、
両者は互いに妨げ合うことはありえない。
宗教は、思弁にまったく依存しない。
宗教は、永遠にして神的なものを、宗教のやり方で直接的に、
感情に即して把握するのである。
これがシュライアーマッハーの偉大な思想である。
……………
彼と彼の直感は、全面的に受け取られねばならない。
彼の指し示すところは、いまだなお十分には貫徹されなかった。
だが、その光が人間の目に届くには百年を要する星がある、と言われる。
おそらくシュライアーマッハーは、
このような星なのであろう。
(『ディルタイ全集 第10巻 シュライアーマッハーの生涯 下』法政大学出版局、
2016年、pp.751-752)

 

のこすところ250ページほど、
まだ終わっていませんが、
上巻とも合わせ、読み応え十分でした。
ディルタイ、シュライアーマッハーについてもっと知りたいと思います。

 

さて弊社は、下記の期間を冬季休業とさせていただきます。
よろしくお願い申し上げます。
2019年12月28日(土)~2020年1月5日(日)
どちら様もどうぞよいお年をお迎えくださいませ。

 

・忙中のベランダに富士寒夕焼  野衾

 

天然ダンス工房

 

装丁家の長田さんご夫妻から案内をいただき、
ダンスの発表会を見に行った。
第1部 小品集、第2部 港町ラプソディ、第3部 幻の水族館
の三部構成。
長田さんのお嬢さんは第1部の「山登り」「市松」に、
第3部では熱帯魚役で出演。
彼女はいま小学三年生。
ごく小さいころから知っているので、
大きくなった彼女が楽しそうに嬉しそうに踊っている姿を見、
目頭が熱くなった。
熱帯魚役で舞台の前面で踊っているとき、
彼女だけが薄く口を開きにっこり微笑んでいた。
そういう場面が二度あって、
二度ともそうだった。
先生の指示どおりなのか、
それとも
彼女のこころの姿だったのかは分からない。
印象深く目に焼き付いた。
全体を通しては、
まず、
音楽の選択が抜群によかった。
なつかしさと新しさがほどよく合わさり、
舞台と客席をがっちり結び盛り上げていたと思う。
照明も大胆かつ繊細に舞台を演出し。
発表会ということだったが、
クオリティの高さに驚き、
二回の休憩をはさんで約三時間、
言葉が少ないからこその深い世界観を堪能。
ある場面では近藤良平を、
ある場面ではピナ・バウシュを、
ある場面ではピーター・ブルック、カントールを思い浮かべながら、
久しぶりにナマのダンスが織りなす時間に
たっぷりと浸ることができた。
それともう一つ、
発表会と銘打ちながら驚くほどの完成度を示していたのは、
ふだんのレッスンの賜物と感じられた。
三歳の子どもも数名加わっていたけれど、
きちきちに間違えないようにと踊るのではなく、
伸び伸びのびのび踊っていた。
演出の妙だと思う。
子どもを型にはめていこうとするのではなく、
ダンスはまず楽しいものなんだよというこころが
踊りだけでなく演出に垣間見られて
そこにも深く感動した。

 

・クリスマス駆け下りてゆく靴の音  野衾

 

感情のつかい方

 

とつぜんのことながら、
子どもの頃から、
喜怒哀楽の感情に振り回されてきたように思います。
生まれ性もあるし、
仕方のないことであると、
そのことについて
この頃は、
必要以上にふかく考えないようしています。
ところが、
ディルタイの『シュライアーマッハーの生涯 下』
(ディルタイ全集第10巻、法政大学出版局、2016年)
を読んでいましたら、
ディルタイは、
シュライアーマッハーを神学におけるカント
であるとして、
シュライアーマッハーが
人間の感情を積極的にとらえていたことを記しており、
目を見ひらきました。
感情の波におぼれずに
それを上手につかえたら、
どんなに人生がすばらしくなっただろう
とも思います。
今からでは遅いかもしれません。
が、
しかし、
シュライアーマッハーに
ますます興味が湧いてきました。

 

・口にすることにはあらず降誕祭  野衾

 

九時間寝ると

 

スッキリします。
高齢の方で、
日常的に昼寝をするひとがいてうらやましく思うことがありますが、
わたしは老人の仲間入りをしたばっかりなので、
昼寝を常態にするにはまだ若く、
たまに九時間眠ることぐらいが関の山。
きょうはクリスマス・イヴ。
いろいろ物思うきょうこのごろです。

 

・ラファエロを見て定まりぬクリスマス  野衾

 

空の養分

 

日曜の朝、テレビを点けたら、
『粘菌 脳のない天才』という番組をやっていました。
おもしろそうなので見ていたら、
やっぱりおもしろかった。
粘菌が迷路の出口までのルートを最短で見つけたり、
塩が粘菌にとって危険でないことを学習したり、
それを他の粘菌に伝えることができたりと
まるでSF映画のような世界。
ということで興味深く見たわけですが、
その番組の中でちょこっとだけ
粘菌以外の植物の生態についても触れる場面がありました。
そのときの説明によると、
植物の知能は根にあり、
人間でいえば、
それはちょうど
頭が土に埋まっている状態であるとして、
人形が土入りの鉢に逆さに挿されたオブジェが映し出されました。
それを見て、
あ、
これはどこかで見たことがあるぞ
とひらめき、
すぐに安藤昌益の『自然真営道』『統道真伝』を思い出した。
植物の根に知能があって
地中から養分を受け取っていることになぞらえれば、
人間の頭が体の上にあるのは、
地中でなく
空から養分を受け取るためではないか、
空を見ていろいろいろいろ思うのは、
そのこととなにか関係しているのではないか。
たとえば谷川俊太郎の詩「かなしみ」
の冒頭、

 

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい

 

などというのも、
人間が、
空に蒔かれた種から育ったことを
詩人の感性でうたっていて、
人間は
地上に立ってからも相変らず空から養分を受け取って生きている
のではないかと思いました。

 

・店主煙草を冬ざれの骨董店  野衾

 

矢の如し

 

十二月は日も時もほんとうに飛ぶよう。
Time flies like an arrow.
て、むかし覚えたけど、
まさに飛ぶ飛ぶ矢の如し。
なんだか急かされている気分なんだよなぁ
と思って街を見れば、
ここ保土ヶ谷でまず目につくのは箱根駅伝のポスター、
みんなで応援しよう、
みたいな感じの。
おせちのポスターとかチラシはもっと前から。
そしてこの頃は、
正月訪ねたい温泉場のポスター。
矢継ぎ早に先々の案内が賑わいます。
いまの「今」が置き去りにされているような、
へんな気も。

 

・ポスターに急かされてゐる師走かな  野衾

 

馬柵棒

 

万葉集の3096番

 

馬柵(うませ)越しに 麦食む駒の 罵(の)らゆれど なほし恋しく 思ひかねつも

 

訳は、

馬柵越しに麦を食む駒がどなり散らされるように、どんなに罵られても、
やはり恋しくて、思わずにいようとしても思わずにはいられない。

この馬柵について、
『萬葉集釋注』の伊藤博は、
「馬柵(うませ)」は筆者の幼年時代、
「馬柵棒(ませぼう)」「馬柵棒(ませんぼう)」の名で、信州高遠地方に残っていた。
(伊藤博『萬葉集釋注 六』集英社文庫、2005年、p.623)
と記している。
これを読み、
わがふるさとのことを思い出したので、
さっそく父に電話してきいてみた。
そうしたら、まったく同じ
「馬柵棒(ませぼう)」の名が父の口から発せられた。
アクセントが秋田風なことで、
はっきりと思い出した。
馬柵棒(ませぼう)はまた、
男子のズボンの小用を足す際に開ける口
についても用いられていたはず。
男子のアレもまた、
暴れ出さぬように柵をしておかねばならない
ということか。

 

・馬柵棒の外れて高し冬銀河  野衾