ヘンリ・ライクロフトの私記

 

本好きのひとたちのあいだで夙に有名な
『ヘンリ・ライクロフトの私記』
イギリスの作家ギッシングが
自身の創作になるヘンリ・ライクロフトに仮託し、
日々の暮らしの感想や四季折々の移り変わり、
交友、読書について、人生観などを披瀝したもので、
なるほどこういうものがながく読みつがれてきたんだなと思います。
たとえば、
以下に引用した箇所など、
いちどスーッと読み過ごしましたが、
もういちど、
段落のはじめに戻って読みかえしました。
そうしたくなる箇所がこの本にはいくつもあります。

 

ランプを消した後で、ドアの所までくると、私はいつもふり返ってみるのである。
部屋は最後の燃え残りの光りを受けていかにもいごこち良さそうに見え、
たち去るにしのびなくなるほどだ。
ぬくぬくとした光りが、
輝く腰板に、椅子に、机に、書棚に映じている。
かと思うと、ある大きな書物の金文字からも反射している。
またこちらの絵を明るくし、あちらの絵にほのかな影を漂わせている。
おとぎ話にでてくるように、
書物たちは仲間どうしで話がしたくて私が出てゆくのを
うずうずして待っているのではないのか、
などとふと想像してみたくもなる。
消えかかった残り火から炎の小さな舌がめらめらと上る。
無数の影が天井や壁の上で揺らぐ。
満足しきった溜息を一つついて、私は部屋を出てゆき、そっとドアを閉めるのである。
(ギッシング作・平井正穂訳『ヘンリ・ライクロフトの私記』岩波書店、
ワイド版岩波文庫、1991年、p.219)

 

・馬柵(ませ)払ひ萬葉の春疾駆せり  野衾