叡智の人・森田正馬にきく

 

このブログですでにお知らせしていますが、
来月29日((日))15時から、
春風社にて畑野文夫さんと対談を行います。
「叡智の人・森田正馬にきく」
そのレジュメができましたのでご覧ください。
コチラです。
畑野さんは若いころ、
森田の門下で入院森田療法を行っていた鈴木知準の医院に
79日間入院されました。
その体験が、
その後の人生に大きく影響したと伺いました。
なおかつ、
森田の残した日記を一年かけて丹念に読み込み、
2016年『森田療法の誕生』という画期的な本を執筆されました。
すでに申し込まれている方もおりますが、
ご興味のある方でまだの方はどうぞお早めに。

 

・影正し人事しづまる冬の暾  野衾

 

オートバイ乗りの夢

 

たまに、そうですね、
二年に一度か三年に一度ぐらいでしょうか、
大型のオートバイを所有している夢を見ます。
ハーレーダビッドソンほどではなくても、
排気量1000ccは超えるようなの。
かっこよく乗っているというのは少なくて、
ただ、
じぶんがそれを持っていて、
車庫においてあるとか、そんな感じの。
おとといでしたか、
めずらしくオートバイに乗って出かけ、気をよくしていたものの、
浮かれていたのか、
カギを抜くのを忘れたままオートバイを離れ、
ハッと気づいてその場に戻ったら、
オートバイはどこにも見当たらず。
近くにいたひとに訊いても首を横に振るばかり。
夢は急にしぼんで空の色までどんよりしてしまいました。
オートバイに限らず、
失くす夢、モノを忘れる夢が多い。
オートバイは、
実際には高校生の頃、
50ccの原付に乗っていたことがありました。

 

・春光や埃あらはれきらり消ゆ  野衾

 

面目躍如

 

少しくだくだしいくらい、彼の登山について書いたのは、
ここに彼の面目が最も多く活躍しているからである。
それは先ず岩波の山に登る体力と情熱の旺盛にも、
山に慣れた健脚と技術にも、
山登の直往、独往にも、
人夫の来るのを待ちかねるせっかちにも、
その住宅にすぐ水洗便所を作るのに対して、
大自然の中にわざわざ野糞を垂れたがる好みにも、
一方に細かい心遣を持ちながら、
人に迷惑をかけたり世話になったりして平気でいるところにも。
山登ばかりではないが、
多忙の中に火のつくように思い立つ実行力にも。
(安倍能成『岩波茂雄伝 新装版』岩波書店、2012年、p.361)

 

終りまであと少しありますが、
伝記のおもしろさを堪能。
安倍能成が岩波茂雄をいかに愛していたか、
それが直に伝わってきます。
岩波の面倒見のよさもこの本で初めて知りました。
陰徳ということばのあてはまる人間は、
そうそうあるものではありませんが、
岩波にはあてはまりそうです。
その辺のところも阿部は見逃していません。

 

・春の雪ささやくごとくあえかなる  野衾

 

わからないことを

 

一八三二年、エヴァリスト・ガロアは第五次方程式は解けない、
ということを証明した。
誰もがこれを解ける、という前提のもとに
何とかこれを解こうとして果たせなかったのだが、
彼はいわば「わからない」ということを精緻に書こうとした。
そうすることで、
この問いに答えたのだといえよう。
わかる、わかったということを書くことと、
わからない、わからなかったということを書くこととは、いずれが困難か。
そこに優劣はない、
というのが筆者に『徒然草』の教える答えである。
(加藤典洋『僕が批評家になったわけ』岩波書店、2005年、p.174)

 

昨年五月に亡くなった文芸評論家の加藤典洋さんの
『僕が批評家になったわけ』がつんどく状態だったので、
重なりから取り出して読んでみた。
風通しのいい書きっぷりで、
お目にかかったことはないが、
人柄がしのばれ声が聞こえてくる気がした。
言葉はこころを隠し、
声はこころを顯すけれど、
文章に声を織り込み、
読者のところまでとどけることはむずかしい。
こころが柔らかく、
こころざしの高いことは
最後の著作『大きな字で書くこと』を読んでもわかる。
ご冥福をお祈りします。

 

・馬の背に触れて身を消す春の雪  野衾

 

if

 

京浜東北線下り電車桜木町駅行き
反対側は大宮行き
ドアが開いてわたしはソファの端に
あとから隣に座ったのは
ウィーンの香
または
滝のとどろくパターソン
おもむろに横罫の入ったB5判用紙を取り出す
用紙には半分ほど書き込まれた文字
それから宙を見やり
if

 

南行先行
電車がすべりだす
横文字の男は
つづくことばを思いついたのか
なにやら書き留めている

 

狂気は記憶の病
とディルタイの本にあった
ことばは詞
詩は記憶が司る
if

 

桜木町 桜木町 終点です
大船方面へお越しの方は ホームの反対側でお待ちください
きょうの未来
絶対までの

 

・音立てて殻破り出づ催芽かな  野衾

 

7がけ

 

過ぎてしまえばあっという間、
光陰矢の如しの「時間」
ですが、
六十二歳のわたしの時間感覚についていえば、
正直なところ、
たとえば、
三十代の頃を思いだして比較した場合、
あの頃とくらべ、
一週間は五日ぐらい、
一か月は三週間ぐらい、
一年は八か月ぐらいの感じでしょうか。
ほぼ7がけ。
これがこのまま進行すると、
ひょっとして、
七十代で6がけ、八十代で5がけ、九十代で4がけ、百で3がけ、
てなぐあいになるんだろうか?
3がけだと一週間は二日。
これ老いの現象学。
そんなタイトルの本がそのうち出るか。
出ないな。

 

・万倍を夢見閑(しづか)の種浸し  野衾

 

ことば、言葉、詞

 

万葉集だったり、芭蕉だったり、ディルタイだったり、文語訳聖書だったり、
とりとめのない我が読書ではありますが、
じぶんのことなのに、
他人事めいて恐縮なれど、
赴くところ、
けっきょくは、
ことばって何かな、
ということになりそうです。
万葉歌人たちに、
鬱とした気分を晴らすために歌を詠むことが共通認識としてあった
といわれれば、
なるほどと合点がいき、
ディルタイやシュライアーマッハーが、
宗教とは、
有限のなかに無限をみることだと意味づけていた
と知れば共感し、
独自な漢字研究で名を成した白川静が、
万葉集を読むことがもともとの願いだったと教えられれば、
ますます尊敬の気持ちが強くなります。
『新漢語林』の説明によれば、
詞は、言+司。
音符の司は、
神意を言葉によってうかがい知る祭事をつかさどるの意味。
言は、言葉の意味。
神意をうかがい知るための言葉の意味を表す。
なるほど。
なっとく!

 

・上り来て息つく遥か富士の凍て  野衾