解釈学への誘い

 

上下で2400ページを超えるディルタイの『シュライアーマッハーの生涯』を
ようやく読み終わりました。ふ~。
下巻の解説は、
竹田純郎さんと三浦國泰さんのふたりで執筆していますが、
三浦さんの解説のなかでとくに目を引き、
つぎの読書へのきっかけをいただいた
と思える箇所を引用します。

 

今、われわれがディルタイの『シュライアーマッハーの生涯』に対峙するとき、
たとえシュライアーマッハーやディルタイに対して批判的、対決的な立場にあるにせよ、
ガダマーの思索の基盤がディルタイの
『シュライアーマッハーの生涯』にあることは歴然としている。
ガダマーの『真理と方法』がプラトンの対話術、
ヘーゲルの弁証法と合流しながら、
解釈学の本流として現代に引き継がれているのは明白である。
(『ディルタイ全集 第10巻 シュライアーマッハーの生涯 下』法政大学出版局、
2016年、pp.1190-91)

 

ディルタイによる「シュライアーマッハー研究」は、
われわれに存在の忘却を警告していると言っても過言ではない。
なぜなら、
むしろ体系から漏れた未完の断章の部分にこそ、
ディルタイの「生の哲学」が生動的に息づいているからである。
われわれはディルタイの息づかいに、
繊細かつ慎重に聞き耳を立てなければならない。
解釈学的文献学の循環的な真髄はそこにあるはずである。
(同書、p.1192)

 

・読初の寄り来る一語一語かな  野衾