長嶋監督とモーツァルト

 

岡田暁生さんの『音楽と出会う 21世紀的つきあい方』を読んでいたら、
指揮者の井上道義さんのエッセイについて触れていて、
おもしろいので、
孫引きになりますが、
紹介したいと思います。

 

最近あるコンサートのプログラムでたまたま、
指揮者の井上道義によるモーツァルトについてのエッセイに出会った
(サラ・デイヴィス・ビュクナーによるモーツァルト・ピアノ・ソナタ全曲演奏会、
二〇一八年九月、京都府民ホール・アルティ)。
まさにモーツァルトの音楽のこの二重底性について語った、
素晴らしい文章である。
いわく
「彼の音楽を演奏するとき、一番大切なのは『多くの表現が二重底の内容を秘めていること』
を知ることだ。
以前、
元気なころの長嶋監督と読売交響楽団のコンサート後の対談の時、
立教時代や巨人に入ったばかりの時、
よくモーツァルトを聴いていて、
同じ曲が、
ある時は自分を元気づけ、
ある時はあちらから悲しげに共感を求めてくるのが不思議だったと言って、
そのあまりに当を得たモーツァルト像に驚嘆した。
そう、
楽しいのに寂しい、強いのに壊れそう、
得意げなのに自信なげだったりする……」。
究極の絶望が至福の表情を浮かべる、
楽しいのに寂しい、強いのに壊れそう――
こうした音楽の深淵をまじまじのぞき込むのは怖いことだ。
(岡田暁生『音楽と出会う 21世紀的つきあい方』世界思想社、2019年、pp.126-127)

 

・読初の古書の誤植の逆さかな  野衾