儒教の「儒」

 飯島耕一さんから『白紵歌』(ミッドナイト・プレス刊)を贈られたのでさっそく読む。「白紵歌」は「はくちょか」と読む。その中に、儒教の「儒」が、うるおすという意味の「濡」と同根であると書かれてあり目から鱗の気がした。
 しりあがり寿さんのマンガで、歳をとることはしょっぱくなることだと教えられ(?)面白いことをいうなあと思ったが、このごろ自分の実感としても、俺は最近しょっぱくなってないかと感じるようになっている。朝起きて口の中がなんとなくしょっぱい。しょっぱくて乾いている。老人ということだ。
 そういう感慨のもと日々暮らしている今日この頃であるゆえ、儒教の「儒」が「濡」と同根であるとの言葉は、まさしく干天に慈雨のごとくこころに鳴り響いた。とどろいた。
 そうか。儒教の「儒」は「濡」か。文を読むことは「濡」なのだ。乾いてしょっぱくならないためにも、カイコが桑の葉を食むように、文を、詩を、読まねば。新井奥邃が三十年近くアメリカにいてキリスト教を勉強しながら、それでも最後まで儒教を捨てなかったことの意味、ヒントをもらったようでありがたく、うれしい。だけでなく、ふつふつと勇気が湧いてくる。まさに、広々とした伸びやかな気分。あぁぁ〜!!!