真理探究

 先日、同志社の中井教授と装丁家の山本美智代さんと話していて、不意に思い出したことがある。(近頃なにかと思い出すことが多い)
 わたしが通っていた小学校の理科教室に黒々「真理探究」と揮毫された額が飾られていたことは、一項を設けてこのホームページに書いたが、その四文字が気になりだした頃、わたしは性に目覚めた。アハハハハ… (性って目覚めるものなの? それはともかく)いや、笑っている場合ではない。本当です。
 人間が肉の交わりによってこの世に誕生する、またその営みは不快なものではどうもなさそうだということに驚愕。動物も植物も、あらゆる存在が「性」という不可解な世界を抜きに語れなさそう。田舎の小学生の頭は妄想でもうバンバン、割れんばかりに膨らんだ。
 登校は部落単位、近所の先輩・後輩連れ立って通ったが、学校が終れば、みなバラバラ数キロの道を歩いて家に帰った。道草をしたって別に怒られもしない。栗の木と見れば、だれんちの木だってかまうものか、栗を拾った。大きな沼に差し掛かればランドセルを道端に置き、小さい石を拾っては沼の向こう岸めがけ飽きもせずに競争して投げたっけ。クワガタやカブトムシなんてどこにでもいた。いい時代だった。ひとりでプラプラ帰ることも多く、そういうときは小さな哲学者。周囲に連なる青い山並みはいつもわたしら子供を見守り慈しんでくれる母のようなものと信じて疑わなかった。
 ところが、「性」という穴倉みたく怪しげなことを妄想してからというもの、あの懐かしい連山も、夜ともなればわたしらを置いてけぼりにして何をしだすか分からない。分かったものではない。空も星もグフフゲヘヘと密やかに笑っているのではないか。なにが本当なのか。人も動物も植物も、山も川も、みんなみんな昼の顔と夜の顔がある。朝顔や昼顔だって夜はきっと別の顔をしているにちげぇねぇ。ちげぇねぇ。あやしい!! もちろんぼくだって…。
 こうして、これまでふところ深く抱いてくれ、慈しんでくれ、安定していると信じてきた(というか、普通にそこにちゃんとある)何もかも(存在)が、めまいするほどグラリ傾き、怪しさだけが強調され目の前に突き付けられた気がした。今から思えばあの頃が一つの大きな節目であったと思う。「とうさん」「かあさん」という言葉に、それまでと違ったニュアンスをにわかに覚えるようになった。