悲母観音

 『刺青墨譜 ―なぜ刺青と生きるか』に収録する写真撮影のため、著者の斎藤先生はじめ、モデルになってくれる方々が来社。息をのむ撮影に立ち会った。
 まず男性。本物の刺青を、見る気でこれほどじっくり見るのは初めて。人体に絵が描いてある。知識としては知っているし、著者の原稿も読んでいる。だが実際のところはといえば、スゲーとは思うものの、「人体」に描かれた「絵」以上のものであるとまでは最初なかなか思えない。ところが、時間が経過するほどに、モデルになってくれた人の肌に汗が滲んでくる。ポーズをとらされ、筋肉が動き、骨がきしみ、感情がうごき、おそらく血圧も上がっている。そのときだ。胸に彫られた蛇の赤い舌がササーッと音を立てて真横へ伸びたのは。背中の鳳凰の眼がらんらんと輝きを増す。シャッターを切る橋本は、わからん、わからん、頭が白くなる… とつぶやいてウロウロウロウロ。
 女性の背中に悲母観音が彫られている。わたしはヌードの体を見ているのか悲母観音を見ているのか。ストレッチでもするようにポーズを変えるたびに悲母観音も姿を変え、遮蔽幕で柔らかくなった光線に悲母観音が息を吹き返す。ほー、と溜め息が出る。脚を伸ばす。あぐらをかく。腹をねじる。悲母観音は、これまで見たこともない表情をつぎつぎと見せてくれる。体が正面を向く。悲母観音は後ろに隠れ、上気した女性の顔がわたしの眼に映る。眼と眼が合ったとき彼女がニコーッ。え。恐ろしいような痒いような安堵するような変な気がした。
 五時間に及ぶ撮影が終り、お寿司を取って社内で慰労の席をもうけた。だれかが質問をする。「刺青をしている人にとって刺青と自分とは一心同体とでもいうものでしょうか」。悲母観音の女性が答える。「一心同体といったのでは、まだ薄い膜で隔てられているような気がします。二つのものが一つになるというものではなく、わたしそのものです」
 ふむ。それを聞いてまた不思議な感覚に捕われた。この人にとって刺青が比喩でなく「わたしそのもの」だとすれば、目の前のジーパンにピンクのシャツ姿のこの女性はだれなのか。さっきの悲母観音の女性と同じ人なのか。悲母観音はジーパンを穿くまい。
 九時を過ぎ、悲母観音は付き添ってきてくれていた妹さんと一緒に帰っていった。悲母観音も夜は眠るだろうかと、変なことを考えた。頭がおかしくなりそう。わからないことは、わからないままにしておくのがいいのかもしれない。おやすみ悲母観音。ク〜ッ!(臭)