追体験

 『鬼平犯科帳』の主人公・火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)長谷川平蔵が、事件に少なからず関係している女とも知らず、茶屋の女に入れ揚げ情痴に走る部下の忠吾に対し、事件終息後「お松がことは、お前の胸の底ふかく仕まっておけい。年をとってからのたのしみになろうよ」と戒める場面(「谷中・いろは茶屋」)がある。
 然り。その時その時で体験することの味わいと、追体験、つまり思い出の味わいとでは確かに異なるものだ。頭の毛もだが、思い出も、時と共に薄くなりしみじみしてくる。それがかえって切ない。時間には勝てない。永遠なんてない。喜びも悲しみも束の間だ。うっ、うっ、うっ、うたかた。平家物語。祇園精舎。いつかは死ぬ。チ〜ン! なんて。
 ところで歌というものは追体験を喚起し沸騰させる触媒作用もあるらしい。インターネットでCDを検索していて投稿コメントをみていると、思い出に浸りつつ、なつかしい、素晴らしい、島に持って行くならこの一枚、大、大、大傑作! という文脈で書かれたものが相当数ある。『懐かしのメロディー』という番組が毎年恒例で放送されるのも、歌と追体験の味が切っても切れない関係にあるからだろう。
 してみると、この歌がいい、あの歌がよかったといっても、実のところ、この歌あの歌そのものがいいというよりも、うがった言い方をすれば、この歌あの歌を聴いていた時の自分が気持ちよかった。だから、その気持ちよさにまた浸りたい。気持ちよくさしてくれい! って、そういうことかもしれない。
 だって、投稿コメントを見ていると、究極がいっぱいあって、究極だらけで、判断に困ってしまう。「最終的に自分の判断で購入してください」と注意書きしているサイトもある。そりゃそうだ。そうだけどさぁ。
 話が逸れた。さて、『鬼平犯科帳』で忠吾があきらめたお松がもしも松たか子だったら、なかなかあきらめ切れるものではなかったろう。
 ん!?