カミュさんとキリスト教

 

食わずぎらい、というほどでなくても、なんとなく通りすぎてきた、
というものがあります。
『異邦人』『ペスト』のカミュさんは、
わたしにとりましてそういう人。
殺人を犯した人がその理由を問われ、太陽がまぶしかったから、
と答えた、
なんてことを、
じぶんで読まずに、人づてに聞いて、
カッコつけすぎみたいに感じ、
理由もなく人を斬る机龍之介のほうがカッコいいではないか、
と思ってきた。
こんかい『異邦人』を読み、
そうか、
たしかに「太陽がまぶしい」ことが汗と光の反射をさそい出し、
そう言うしかないことを知り、
やはり、
うわさを鵜呑みにしてはならず、
じぶんで読んでみないと分からないものであることを、
改めて思い知らされた。
なのでひきつづき『ペスト』を。
ふたつを読んで感じたのは、ずいぶんキリスト教がベースにあるな、
ということ。
そこでカミュさんが学位論文として書いたという
「キリスト教形而上学とネオプラトニズム」を読んでみた。
圧倒された。

 

神は異教徒に徳を、もしわれわれがそれを欠く場合持つようにはげまし、
またすでに持っているならば
自尊心をくじくためあたえたのである。
キリスト教において、
ギリシア的意味での徳がこれほどきびしく、
かつひんぱんな試練にかけられたためしはない。
そればかりではなく、
そうした自然の徳も人間が自慢するとき、悪徳に転化するのである。
傲慢は悪魔の罪である。
われわれの唯一の正当な目標は、
そうではなく神である。
そして神が恩寵によってあたえる賜物は、
常に神の寛大さの結果である。
恩寵は無償である。
だから善行によって恩寵を獲得できると考えている人々は、
ものごとを逆にとっている。
恩寵に価するということが可能なら、
恩寵は無償ではないだろう。
いや、
それよりさらに一歩を進めなければならない。
神を信ずることが、すでに恩寵をこうむることである。
「信仰」は「恩寵」のはじまりである。
(カミュ[著]滝田文彦[訳]『カミュ全集 1』新潮社、1972年、p.85)

 

学位論文で取り上げている主な人物は、
プロティノスさんとアウグスティヌスさん。
ふたりともアフリカ北方の出身。
しかしてカミュさんも、アフリカはアルジェリアの生まれ。
お三方とも、
地中海の海と光をよく知っていたでありましょう。
そういうことをつらつら想像していると、
カミュさんの心性がすこし分かってくるような気もします。
ところで、
『異邦人』の、とくに後半の空気感は、
新約聖書に記されている、
ゴルゴタの丘へ向かうイエス・キリストにまつわる人間がつくり出す空気感
と実に似ていると感じた。

 

・人生に練られ知り初む秋の声  野衾