永遠をおもう

 

秋田に帰省となると、
このごろは、だいたい弟が最寄りの駅まで迎えに来てくれます。
送り迎えだけでなく、
事前にいろいろと調べ、秋田、山形の景勝地に案内してくれます。
秋田県にかほ市の元滝伏流水。
これまで知らずに来ました。
鳥海山に降った雨や雪が地下にもぐり伏流水となる。
それが湧き出し滝となって元滝川へ落ちる。
秋田にこんな土地があったのかと、しずかな感動をおぼえました。
流れる水はあくまで澄み、吸い込まれそうになります。

 

ギリシア人が粘土をこねて
種々の形をこしらえて
わが手に成った息子を見ては
ますますうっとりするもいい。
しかしわれらの喜びは
ユーフラテスに手足を浸し
流れる元素に身をまかせ
かなたこなたへ漂い行くこと。

 

これは狭い古典主義の克服を意味する。
むろん古典主義といえども個人的なもののなかに永遠のものを求めた
のだが、
やはりそれは
個人的な次元で形成されたものしか承認しなかった
からである。
ただ、
永遠のものを重んじるといっても、
それは永遠のものが具体的に堅固な形態として表現される場合に限られる。
わたしたちは今それを超えるものを前にしている
のである。
永遠のものがむき出しのままに求められ、
個人的なものはそれを前にして
退却する。
これは老年期に顕著な心的態度である。
(アルベルト・ビルショフスキ[著]高橋義孝・佐藤正樹[訳]
『ゲーテ その生涯と作品』岩波書店、1996年、pp.957-958)

 

詩は、「愛と形象」。
ゲーテさんの詩は、はるかを遠望し、
生きることの無限の滋味を豊かにつたえてくれます。

 

・矛盾的自己同一の秋を行く  野衾