即物的な厳粛さ

 

読みかけの本がつねに数冊ありまして。
飽き性なんですかね。
一冊読むのにある程度の時間がかかりますけど、そのあいだに、
興味がほかへ移ってしまい、
いま読んでいる本を読み終える前に、
どうしてもそっちを読みたくなる。
で、読み始める。
読んでいるうちに、さいしょのつよい興味がだんだん薄れ、
へいじょうなこころに戻っていく。
と、
読み終わらぬうちに、また別の本が読みたくなる。
あたらしい本を手に取る。
それを繰り返しているうちに、どんどん読みかけの本がふえる。
アウエルバッハさんの『ミメーシス』は、
そういうたぐいの本。
下巻の途中でやめていたのを手に取り、
なんとかこんどは読み終えそう。

 

彼女の生活の愚かしさ、未熟さ、混乱、
彼女をとりかこんでいるこの世の生活のみすぼらしさ、
(「あらゆる生活の苦しみが皿にもって出されたみたいだった」)
を、
はだかにしてみせるフローベールの言葉は、
ほんとうの悲劇の言葉ではないし、
作者も読者も、
ほんとうの悲劇の主人公のように、エンマと一体感をもつことはない。
彼女はいつも作者と読者から、
吟味され、さばかれ、彼女の生活している世界もろとも、
断罪されている。
しかしまたエンマは喜劇の主人公でもない。
絶対にそうではない。
喜劇の主人公となるには、
彼女はあまりにも運命のもつれにかたく捉えられている。
フローベールは決して心理解剖をしないで、
ただ事実そのものに語らせているだけなのではあるが。
フローベールは、
特にバルザックやスタンダールも含めて、
従来の実生活にたいする態度や様式の水準とは、全くちがったものを発見した。
これをひと言でいえば、
「即物的な厳粛さ」と称してよいであろう。
文学作品の様式を示す言葉としては、
おかしいかもしれない。
「即物的な厳粛さ」とは、
不感無覚の立場で、あるいは少なくとも感動をつゆもらすことなく、
人間生活のもつれや情熱の深みに、分けいろうとする態度であって、
芸術家よりもむしろ宗教家や、教師、
あるいは心理学者に期待されるものである。
だが直接われわれに役立つ効果を求める宗教家や、教師や、心理学者の要求は、
フローベールの心から遠い。
彼がこのような態度をとることによって目指したものは、
「さけびでもなく、痙攣でもなく、思考の眼を固定すること」、
つまり言葉によって
観察の対象となっているものの真実を語らせること
であった。
(E・アウエルバッハ[著]篠田一士・川村二郎[訳]
『ミメーシス ヨーロッパ文学における現実描写 下』筑摩叢書、
1967年、p.246)

 

わたしが読んでいるのは1967年発行の筑摩叢書のものですが、
その後、ちくま学芸文庫に入ったようです。
需要があるのかな。
フローベールさんの『ボヴァリー夫人』にかんするこの箇所を読むと、
サルトルさんがあの浩瀚な『家の馬鹿息子』を書いたのも分かる
ような気がしてきます。

 

・薄闇をさらに濃くして虫の声  野衾