有限と無限

 

としを重ねてくると、死がだんだん近づいてきますので、
ニンゲンは死んだらどうなるんだろう? 死んだらすべて終りかな?
そもそも死ってなんだろう?
とかとか、
子供のころに空を見上げて、ぼんやり思っていたことが、
にわかに切実さを増してきます。
そりゃあ死んだら終りさ、終りに決まっているさ、
みたいな啖呵を耳にしたり目にすると、
じぶんの不安感がどうにもヘナチョコなものに思えてきます
けど、
ひとはひと、
ヘナチョコでも、じぶんの不安と付き合っていくしかない、
とも感じます。

 

虹は人間のいとなみを映し出すものだ。
あれに則して考えてみろ、そうしたらもっとよく分るはずだ。
光の多彩な反映こそわれわれの生にほかならぬと。

 

人間の感受方法では無限のものを無限のままにとらえることはできず、
そのようなことをすれば、
無限のものが破壊作用を及ぼすだろう。
が、
方法はほかにもある。
人間に定められた、人間独自の方法、
無限のものを有限の形式で獲得するという方法である。
老ゲーテはこんな格言詩を書いたことがある。

 

なんじ無限なるもののうちに歩み入らんと欲すれば、
ただ有限なるものをたどりてあらゆる方向に進むべし。

 

無限性と有限性のあいだに人間の本質は挟まれ、その両方とかかわり合う。
人間の本質の最高の検証であり、
同時に最高の目標となるものは何かといえば、
それ自体ではなんの意味もない有限
のものに、
意味を豊かに蔵する万象と永遠性の息吹
をみたし、
それを宇宙的生命の反映として形成することによって、
より高い統一性に到達すること
である。
そしてこの統一性にいたってはじめて、
澄みきった調和的な人間存在が約束される。
そのとき本質と現象、神的理念と世俗的現実が結び合せられる。
むろんこのような統合は諦念において、
すなわち
みずから制限した実践活動においてのみ実現しうる。
そして成熟と忍耐の長い道のりは、
魂を人間最高のこの目標に近づけるために不可欠なもの
なのである。
(アルベルト・ビルショフスキ[著]高橋義孝・佐藤正樹[訳]『ゲーテ その生涯と作品』
岩波書店、1996年、p.1173)

 

お日さまをジッと見ていれば目がつぶれるから、
ゲーテさんの言うとおりだな。
じぶんの仕事をまじめに忠実におこない、先人の知恵にきいて、
考えつづけることをしたい
と思います。

 

・つれづれを濃き日となして秋刀魚焼く  野衾