ゲーテさんの詩と真実

 

ビルショフスキさんの『ゲーテ その生涯と作品』を読み終えました。
朝、サイフォンでコーヒーを淹れるすきま時間に
ちょっとずつ読み始めましたが、
だんだんおもしろくなってくるにつれ、
加速するように頁がすすみ、
ようやく。
ゲーテさんの一生が、隣人の生涯とも思えてきます。
わたしの生まれた隣町・五城目町の出身で、
ゲーテ研究家として名を成した木村謹治先生がいます。
母校・秋田高校の先輩でもあります。
そうと知らずにわたしは大学生時代に、
木村先生と相良守峯先生が編まれた独和辞典をつかっていたのですが、
ずっと後になってそのことを知りました。

 

ランス「ロマン派」が
ドイツにおける同名の運動以上にゲーテの忌み嫌うところとなったのは
当然のことだが、
ただフランスの運動をドイツのそれと絶対に同一視してはならない
――フランス「ロマン派」は、
精神史的にみればドイツ後期ロマン派に、
しかし大部分は「青年ドイツ派」に相当するものであり、
著しく主観主義的な現実文学である。
ゲーテはヴィクトル・ユゴーの偉大な小説『パリのノートル・ダーム』を
ひじょうに鋭く評して、
「いわば絶望の文学であり、ここからはしだいにすべての真実、
美的なものがおのずと締め出されていく」と述べた。
彼はこの作品の第二部を読むことを拒んだ。
「高齢になるまで自然な感覚を失わぬよう努めてきた人間に、
このようないとわしいものとかかわり合わねばならないいわれが、
いったいどこにあるのか。」
一方、
バルザックには卓越した精神を見て取り、
一八三一年秋には最大級の関心をもって『あら皮』を読みふけっている。
ただこの作品から「国民の根本的腐敗」を読み取り、
この腐敗は
「今、読み書きのできない当局が、
いつか国民をできうるかぎり再建しなければ、しだいにふかく進行して
いくであろう」と言っている。
要するにゲーテの目には、
「ロマン派」の詩的表明から推して、
フランス国民にあっては真実と自然らしさという基礎が脅かされている
ように映ったのである。
(アルベルト・ビルショフスキ[著]高橋義孝・佐藤正樹[訳]
『ゲーテ その生涯と作品』岩波書店、1996年、pp.1211-1212)

 

ゲーテさんの自伝に『詩と真実』がありますけれど、
日本語でいうところの「真理」でなく「真実」がだいじだったのかな、
と思います。それと自然。

 

・日を浴びて白くなりゆく薄原  野衾