ドストエフスキーさんを初めて読んだのは、高校生のとき。
漱石さんから始まった読書遍歴ですが、
「ニンゲンて、気持ちの悪い生き物」
という感想は、
さらにエスカレートしていった気がします。
そういうなかでの『罪と罰』の衝撃はすさまじいものでした。
とりわけ、
殺人犯ラスコーリニコフと娼婦ソーニャの
『聖書』にまつわる対話。
「ラザロの復活」について、ことばを継げなくなる
ソーニャの精神の緊張度。
なんど読んでもドキドキします。
そのことをアウエルバッハさんの本は思い出させてくれます。
ロシア人は、十九世紀の西欧文明にはめったにみることのない経験の直接性
を保持してくれたように思われる。
強烈な実際的、倫理的、精神的衝撃が
ただちに本能の深淵を掻き立て、
一瞬のうちに彼らは平静な、時としては無為徒食にひとしい生活から、
実際面でも精神面でも
この上なく恐ろしい極端へと飛びこむのだ。
彼らの本性、行動、思想、感情の振子運動はヨーロッパの他のどの国よりも
はるかに大きいようである。
このことはまた、
われわれがこの書の始めの数章で明らかにしようとつとめた
キリスト教リアリズムを連想させるものである。
愛から憎しみへ、
従順な献身から動物的な野蛮へ、
真理への情熱的な愛から下賤な享楽欲へ、
敬虔な素朴さから残忍なシニシズムへの変化は、
特にドストエフスキーの場合にいえることであるが、
彼に限らず、
法外なものである。
変化はしばしば同一人物に、驚くべき予知できない変動のうちに、
ほとんどだしぬけに現われて来る。
そのたびごとに人々は全力を消耗し、
彼の言葉や行為は混沌とした本能の深みを明かすに至る
のだ。
この深淵は
西欧諸国においても決して未知のものではなかったが、
科学的な冷静な態度、形式感覚、礼節の重視から
表現がはばかられたのであった。
偉大なロシア作家たち、
とりわけドストエフスキーが中欧や西欧で知られるようになったとき、
読者を驚かした作品中の緊張した精神力と表現の直接性は、
初めてリアリズムと悲劇性の混合の真の完成
の可能性を示す啓示ともなったのである。
(E・アウエルバッハ[著]篠田一士・川村二郎[訳]
『ミメーシス ヨーロッパ文学における現実描写 下』筑摩叢書、
1967年、p.277)
・焼き秋刀魚つつく猫背の与三郎 野衾