ゲーテさんの「毒」

 

本を読まなかった少年が漱石さんの『こゝろ』をきっかけに
本を読むようになって、
ほどなく読んだものの一冊に『若きウェルテルの悩み』
がありました。
半世紀まえのことでもあり、
はなしはほとんど忘れていますけど、
強烈な印象を抱きつつ、どきどきしながら読んだ記憶があります。
「毒」といってもいいかもしれません。

 

訳者が十代のころ、はじめてゲーテの作品に触れて深い感動を覚え、
ゲーテに触れることは高い喜びであり、
ゲーテを人生の師としたいと、
誇りをもって自分に言い聞かせたあのときの熱い思いは、
たしかに本書をつらぬく精神の一部であったと思う。
しかし本書のそのような美点は同時に危険な「毒」でもある。
かつて森鷗外がビルショフスキのゲーテ伝を各種伝記のうちで
「もっとも便宜に纏まったもの」として愛読し、
これをいわば底本として用いながら彼のゲーテ伝(『ギヨオテ傳』一九一三年)
を書いて以来、
わが国の初期のゲーテ受容は
とりわけビルショフスキの恩恵をこうむると同時に、
ゲーテは讃美されるべき師表的存在だという固定観念を植えつける「毒」
をも吸い込んだのである。
今日、そうしたゲーテ観に対する反省から、
当時の時代背景、社会史などをも含めた「ありのままのゲーテ」
への接近が、
ゲーテに対する「敬意」をこめて試みられているのは
けだし当然の趨勢というべきであるが、
そういう傾向のいわば出発点としてのビルショフスキのゲーテ伝は
いま一度省みられる必要がありはしないであろうか。
本書の利用価値を高からしめているかずかずの美点とともに、
このような視点からも本訳書が広く読者に利用されることを願ってやまない。
(アルベルト・ビルショフスキ[著]高橋義孝・佐藤正樹[訳]
『ゲーテ その生涯と作品』
岩波書店、1996年、p.1231)

 

訳者後記にあることばを、しみじみ読み、
失敗も過ちもあった、じぶんの来し方を思い返さずにいられない。
また「毒」と一見関係がなさそうにみえる、
ゲーテさん描くところの自然の描写は、
わたしの隣町出身で、
ゲーテ研究者として名を成した木村謹治先生が幼いころ目にしていたはずの
風土とふかく重なっていくようです。
木村先生は、
空を行く雲を怖がる少年だったとか。

 

・秋の日を時に重ねて老いるかな  野衾