あます

 

方言について何度かこの欄に書いてきましたが、
ふるさと秋田に限っても、
その使用範囲は、
どうやら、
現在の行政区分とは必ずしも一致しないようです。
ことばの流れは、たとえていえば、雲の流れのようなものでしょうから、
県境を楽々飛び越えてしまうのかもしれません。
さて、今回は「あます」
わたしの田舎(これまた微妙で、町全体でそうかといえば、おそらく違うでしょう)
では、
嘔吐することを「あます」という。
念のため、
愛知県出身の家人に確認したところ、
嘔吐の意味で「あます」とは言わないとのこと。
現在「もてあます」という形で残っており、
もともと「余らせる」「取り残す」ということだったようですから、
嘔吐の意味からいって、
消化しきれなかった状態のものを吐き出す行為としては、
そういう使い方があってもおかしくない
とは思います。
ちなみに、
根本俊夫さんからご恵贈いただいた『秋田の湯沢・雄勝弁あれこれ』には、
嘔吐の意味の「あます」が載っています。
同じ意味で「あげる」があり、
これも『秋田の湯沢~』に掲載されています。

 

・ゆふだちに腿もあらはの宿りかな  野衾

 

きのうのように、とは

 

年齢を重ねることも新しい旅であるなぁと感じることしきり。
きのう、ふと、
二十代のときに勤めていた高校が今どうなっているだろうかと興味が湧き、
HPをひらいてみました。
動画で紹介される校舎、施設はとてもきれいで立派。
わたしがいたころも立派な校舎でしたが、
加えてゴージャスさが増したような。
それはともかく、
校舎の雰囲気が変ったことで、否が応でも距離が生まれたように思いますが、
しかし、
『遠い昨日、近い昔』(森村誠一)のことばどおり、
目を閉じれば、
「きのうのように」
は大げさだけれど、
とても四十年も前とは思えません。

 

さまざまの事おもひ出す桜かな

 

と詠んだ芭蕉の句がありますが、
いまじぶんの体験と重ねてみると、
また違った味わいが生じてき、
芭蕉の旅は、物狂おしさの放散でもあったかと。
わたしが当時よく通っていたジャズ喫茶の店にブルー・ノートがありました。
髭を生やした無口で頑固そうなオヤジさんがいました。
わたしはそこでウインナーコーヒーを頼むことが多かった。
あのお店、いまどうなっているだろう。
いろんな話をしたっけ。
顔。顔。

 

・孫に問ひ指し示す灯や吊鐘草  野衾

 

意識と経験

 

私が採用している原理は、意識が経験を前提としているのであって、
経験が意識を前提しているのではない、
ということである。
意識は、
或る感受の主体的形式における特別の要素である。
したがって現実的存在は、
その経験の或る部分を意識するかもしれないし、意識しないかもしれない。
(A.N.ホワイトヘッド[著]/平林康之[訳]『過程と実在 コスモロジーへの試論 Ⅰ』
みすず書房、1981年、p.77)

 

先月末、
佐藤陽祐さんの『日常の冒険 ホワイトヘッド、経験の宇宙へ
を出版しましたが、
そこに多く引用されていた『過程と実在』
が面白そうでしたので、
いい機会と思い、
古書を買い求め読みはじめたら、
数学から学問を始めた人らしく、伸びやか、
かつ、
広々とした世界へいざなわれるような、
そんな風景が展開しています。
上で引用した箇所など、なるほどその通りと合点がいくし、
佐藤さんの論考をさらに追体験できた気がし。
また、メルロ・ポンティの『知覚の現象学』を思い出したり。

 

・野良猫がぺろり舌出す暑さかな  野衾

 

トークのつづき

 

昨日、
つきあいのある大学の先生のお声がかりで、
リモートによる講義によばれ、話す機会がありました。
読書についていろいろ話すなかで、
ドストエフスキーの『罪と罰』中、
殺人を犯したラスコーリニコフと娼婦のソーニャについて触れながら、
『聖書』にでてくるラザロの復活のシーン
を取り上げました。
死んだラザロについて、
姉妹のマルタがイエスに向かい、
「主よ、もう臭います。四日もたっていますから」
と告げる。
墓から石を取り除けさせたイエスは、
「ラザロ、出てきなさい」
と大声で叫ばれ、
死んでいたラザロは、
手と足を布で巻かれたまま出て来たと「ヨハネによる福音書」に記されてます。
そこの箇所を紹介しましたが、
それとの関連でわたしがつねづね感じていることがあり、
ひょっとしたら、
きのう話を聞いてくれた学生さんの中に、
このブログを読まれる方があるかもしれないと想像し、
以下に書き残すことにします。
日本では、
著者の名前や発行年、発行元などの書誌情報を記した「奥付(おくづけ)」を、
本や雑誌の最後のページに入れるのがふつうです。
この「奥付(おくづけ)」ですが、
これと似たことばに「奥都城(おくつき)」があります。
こちらは、上代における墓、
あるいは、
神道式の墓のことで、
「奥付(おくづけ)」と「奥都城(おくつき)」では
とくに関連が無いのかもしれませんが、
わたしは、
本の「奥付(おくづけ)」は、
読みだけでなく、
意味からいっても、
「奥都城(おくつき)」=墓に似ていると感じています。
『聖書』はもとより、
プラトンでも、アリストテレスでも、
また『万葉集』でも『源氏物語』でも、
作者はとっくに亡くなっており、本はいわば墓のようなものであるけれど、
本を手に取り、ページをひらけば、
千年、二千年、いや、それ以上前に亡くなった人の魂がよみがえり、
いま現在のわたしに生き生きと語りかけてくる。
そういう視点からいうと、
「奥付(おくづけ)」のある本の風景が、
またちがって見えてきます。

 

・保土ヶ谷の川も蕎麦屋もさみだるる  野衾

 

赤ちゃんの気持ち

 

本を読んでいて、ふと、あれ、いま何て書いてあった?
となり、
あわてて前の行、
さらに前まで戻ることがたまにあり、
むずかしい本を読んでいる時になるのかといえば、
そういうわけでもなく、
なのに、
なんども同じ行を読み返し、読み返し、
しているうちに、
なんとなく、
ふわふわしてきて、
ちょっと風邪のひき始めような体のざわつきを感じ、
ちょっぴり気分が悪くなり、
泣きたいような気持ちでもありまして、
仕方がないから目を瞑る。
ちょっと落ち着く。
いいや、
このままで。
まなうらに先ほどの文字列が浮かび、弾け、
やがて消え。
空には雲がぽっかりで。
かと思えば、
ヘビだったり。
ゴミ出しの日ではない。
けむりがもくもく、踏切の焼き鳥屋、きのうは休み。
アイスが食べたいな。
と。
あ。
い。
眠った!
寝ていたのか。
どうりで。
しゃっきりした。
六十年以上さかのぼり、物心がつく前、文字はもちろん読めないけれど、
おんなじような気持ちになって泣いていた、
気がします。
赤ちゃんが泣くのはいろいろ
だろうけれど、
眠たい時にも泣くから、
それを追体験したような具合。
へんな感じ。

 

・梅雨晴れ間遮断機横の焼き鳥屋  野衾

 

ある想像

 

電車のなかで読むのは文庫本と決めており、
いまは、岩波文庫『文選』の第二冊。
そのなかに、
王粲(177-217)という詩人の「七哀詩二首 其の一、其の二」が収録されている。
後漢末の初平四年(193)、王粲は長安の動乱を避けて荊州の襄陽に赴く。
「其の一」は、長安を発つ際、
戦乱による国の荒廃ぶりを目のあたりにして湧き起こる悲しみをうたう。
と、解説にある。
ところで目をみはったのは、
「其の一」の八句目から十二句目。

 

白骨 平原を蔽う

路に飢えたる婦人有り

子を抱きて草間に棄つ

顧みて号泣の声を聞くも

涕を揮いて独り還らず

 

この箇所に対応する日本語訳はといえば、
「ただ白骨が平原を埋め尽くす。
路傍には飢えた一人の婦人、抱いていた子を草むらに捨てる。
泣き叫ぶ声にふりかえるが、涙を払い、もどろうともせず一人去ってゆく。」
わたしはすぐに松尾芭蕉『野ざらし紀行』冒頭、
有名な富士川の場面、捨て子にかんする散文描写と俳句を思った。
「猿を聞人 捨子に秋の風いかに」
この箇所について、
リアルな話なのか、フィクションなのか、
さまざまに議論がなされてきたことは承知していたが、
いずれにしても、
わたしは腑に落ちなかった。
リアルな話ならば、
捨て子を詠んで去っていく風流に疑問が湧き、
フィクションだとすれば、
どうしてそんな虚構をこしらえたのか理解できなかった。
が、
王粲の詩を読み、
これを下敷きにしていたとすれば納得がいく。
杜甫をこころの師としていた芭蕉は、
杜甫が愛読していた『文選』のことを知っていて、
だけでなく、
おそらく、
読んでもいただろう。
『文選』は古く日本に入ってきており、
『白氏文集』と同様によく読まれていたらしい。
山本健吉は『源氏物語』「手習」における浮舟の歌とのひびき合いを記しているが、
それもあるかもしれないけれど、
わたしは、
王粲の詩とのひびき合いにさらに深いものを感じる。
王粲のこの詩には猴猿(こうえん。「猴」も猿)が登場するが、
中国の詩では、
哀愁を誘うものとして猿の鳴き声が詠われるそうで、
「七哀詩二首」はその早い例だという。
「野ざらし紀行」とのひびき合いはここからも感得できる。
芭蕉の旅は、
空間の移動だけでなく、
時間の旅でもあったことが分かる。

 

・見上ぐ子の雨を拭きとる傘の母  野衾

 

ことばの経済効率

 

毎週木曜日のテレビは『プレバト!!』
と決めていますが、
「俳句の才能査定ランキング」の先生は、
夏井いつきさん。
夏井先生が割と口にすることばの一つに「経済効率」があります。
タレントの的場浩司さんが、

 

職質をするもされるも着膨れて

 

の句を披露したときにも「職質」をとらえ、
「経済効率がいい」と、
たしかおっしゃった。
「職質」ということばによって
「状況が全部立ち上がってくる」と。
ちなみに、
的場さんのこの句はその後、
石寒太さん編著の『歳時記』に掲載されたそうです。
さて夏井先生がおっしゃる
「経済効率のいいことば」
ですが、
俳句に限らずのことだなぁと感じます。
俳句は十七音ですから、
一つ一つのことばの持つ情報量と互いのひびき合いが肝心ですけれど、
これは、
わたしの仕事でいえば、
書名を考えるときに応用ができそうです。
目の前の原稿を精読、
エッセンスをよく理解し、解釈し、
編集の時をへて本が完成し読者に届いたときに、
書名から読み手が本のエッセンスを想像し、
そこに至るような、
ニュアンスのある単語をえらぶ。
このごろでいえば、
『日常の冒険 ホワイトヘッド、経験の宇宙へ』
がそうだったかな。
著者に気に入っていただければ、
言うことなし。

 

・五月雨竹林に盈つほてりかな  野衾