「興」について

 

中国最古の詩集である詩経には、詩を分類し、六つ挙げている。
いわく、賦、比、興、風、雅、頌。
このうちの「興」について、
たとえば『広辞苑』では「外物に触れて感想を述べたもの」
となっている。
白川静の『字統』では
「《きょく》と同と廾《きょう》とに従う。酒器である同を、上下よりもつ形。
酒をふりそそいで、地霊をよび興すことをいう」とあり、
またさらに、
「興はいわゆる興舞の祝儀によって地霊を興すことばであり、
わが国の序詞や枕詞と、その起源的性格において通ずるところがある」
とある。
白川さんの『初期万葉論』は、
「興」との関連からも面白く読みましたが、
たまたま柴田天馬訳の『定本聊齋志異』を読んでいたら、
巻の六に収録されている「閻王《えんわう》」の冒頭、
これぞまさに興、と思わせられる文章があり、
目をみはりました。

 

李久常《りきうじやう》は臨胊《りんく》の人《ひと》だつた。
あるとき壺榼《さけさかな》を持つて野原に遊びにゆき、
あたりの景色をながめながら一杯飲んでゐると、
一陣の旋風《つむじかぜ》が蓬々《すさまじ》い勢ひで來るのを見た。
かねて旋風《つむじかぜ》には物《もの》の怪《け》が居ると聞いてゐた李は、
敬《うや〳〵》しく酒を地に酹《そゝいで之《それ》を尊[ママ]《異体字、まつ》り、
やがて歸つて來たのである。
(蒲松齢[著]/柴田天馬[訳]『定本聊齋志異 巻六』修道社、1955年、p.287)

 

柴田天馬の訳がおもしろいのは、
ふりがなが、ふつうの施し方とちがい、
原文の意味を汲み、
それを日本語に転換し、
漢字の読みでなく意味をルビとして振っているところ
(引用文でもそうですが、ふつうに振っている箇所もあります)。
それはともかく、
「興」に関するもともとの意味が、聊齋志異の短編にまで登場し、
日本の序詞や枕詞、また、
若菜摘みなど古来の風習とも併せ、とても興味ぶかく感じた次第。ダジャレかよ。

 

・まなこ上ぐ屋根に日永のとどまりて  野衾

 

プログレ愛が凄い!

 

ネットで見つけてすぐに買いました。
『1970年代のプログレ 5大バンドの素晴らしき世界』
5大バンドとは?
ピンク・フロイド、エマーソン・レイク&パーマー、イエス、ジェネシス、
キング・クリムゾン。
著者の馬庭教二(まにわきょうじ)さんは、
1959年生まれだそうですから、
わたしより二つ下のほぼ同年代。
著者が中二のとき出遭ったときの感想を引用してみよう。

 

その心地よさをどのように表現すればいいだろう。
真夜中に高い高い岩壁を登っていって
満天の星をいだく頂上に頭をつっこみ見上げた瞬間の達成感とでも言おうか。
高い高い滝の上からはるか眼下の滝つぼに向かって身を投じた刹那
の浮遊感とでも言おうか。
ともかく、
レコードに針を下ろしてから20分近くかけて
溜めに溜めてきた何物かが解き放たれる、信じがたい快感だった。
あまりのカタルシスに腰がくだけたようになっていると、
音楽は冒頭と同じ、
鳥のさえずりと川のせせらぎの音に包まれて終息した……。
(馬庭教二[著]『1970年代のプログレ 5大バンドの素晴らしき世界』
ワニブックス、2021年、p.43)

 

みじかい文章の中に「高い高い」が二度使われています。
それに「真夜中」「満天の星」「頂上」「瞬間」「達成感」「刹那」「浮遊感」
「快感」「カタルシス」と、
エッジの利いた単語が目白押し。
著者が中二で初めて聴いたこのアルバムは、イエスの『危機』。
原題は、Close to the Edge。
1972年発売。
著者のプログレ愛が迸っています。
わかるなぁ。
わかるわかる。
わたしは、イエスよりも、
どちらかといえば、ピンク・フロイド、キング・クリムゾンのほうでしたが、
やはり馬庭さんのような昂奮度で聴いていた
気がします。
休日、ほかの本を読むのをやめて、一気に読了。
おもしろかった!
ちょっと懐かしくなって、
棚からCDを取りだし『危機』をゆっくり聴いてみました。
ふむ。
そうか。そうだったな。
でも、正直、
!?
若いときに好きだった、大好きだったものに触れこのように感じるのはよくあること。
なにかが失われ、
変ってしまったのでしょう。

 

・朝の体操明けゆく空の鶯  野衾

 

生きられる時間

 

世俗の時間への人間の包摂は、
人々の生き方や生活の整序化の仕方における変化の所産でもある。
脱魔術化をもたらしたのと同じ社会とイデオロギー上の変化が、
こうした事態をもたらしたといえよう。
とりわけ、
近代文明の秩序を作り上げた諸規律が、
人類史でも類例をみない仕方で時間を計測し組織化する道筋をつけたのである。
時間は貴重な資源になったのであり、
「浪費」してはならない。
その結果は、
凝集され整序された時間環境の創出であった。
こうした時間の管理が人々の生活を包み込み、
時間はやがて自然のように見られるようになった。
人々は、
そのなかで均一的かつ単純な世俗の時間を生きる環境を構築してきたのである。
人々は、
事を済ませるためにこの世俗の時間を計測し管理しようとしてきたわけである。
この「時間の枠組み」は、
おそらく近代の他のいかなる局面以上に、
「鉄の檻」という有名なウェーバーの記述を説明するものといえよう。
それはすべての高次の時間を閉塞させ、
それらを構想することすら困難にさせていった。
(チャールズ・テイラー[著]/千葉眞[監訳]
『世俗の時代 上』名古屋大学出版会、2020年、pp.75-76)

 

四十年ほど前、横須賀にある高校に勤めていたころ、
職員室のお茶飲み場で数名の先生がくつろいでいたとき、
授業から帰ってきた数学の先生が、
なんの話からそうなったのか忘れてしまいましたが、
そもそも時間とはなにか、
ということを話題にし始めた。
わたしは、勤めて間もない時期だったし、
だまって聴いていただけですが、
うまく説明できないけれど、なんだか違和感を感じたことだけは覚えています。
その違和感に触れる内容がテイラーの論考にある気がして
読みはじめましたが、
引用箇所はそのこととも関連しています。

 

・ドア近くあや取りの子ら初夏の風  野衾

 

「悪の陳腐さ」について

 

行為が悪いほど、それだけ動機も邪《ルビ=よこし》まになる。
アーレントが批判するのは、この信念である。
怪物でも変質者でもサディストでもなく、
イデオロギーの狂信者でもない個人、
出世をして優越感を感じたいというささやかな野望と欲望
に動機づけられている個人が――全体主義の状況に置かれると――
もっとも恐るべき悪行を犯しうるのである。
歴史的状況と社会が異なれば、
アイヒマンは人畜無害の小役人だったかもしれない。
あるいは別な言い方をすれば、
もっとも世俗的な欲望に動機づけられたまったく平凡な人間が
――異常な状況に置かれれば――
怪物的な行為を犯しうるのである。
現代の官僚制の諸条件に関してかくも恐ろしいのは、
これらの条件がこの種の悪を犯す潜在性を増大させていることである。
アーレントは全体主義体制の終焉後も根源悪の可能性が生き続けていると主張するが、
同じことが悪の陳腐さにも当てはまる。
(リチャード・J.バーンスタイン[著]/
阿部ふく子、後藤正英、齋藤直樹、菅原潤、田口茂[訳]
『根源悪の系譜 カントからアーレントまで』法政大学出版局、2013年、pp.367-368)

 

弊社から刊行したヘレン・M・ガンターの
教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』について、
訳者三名の先生方と座談会を行った際、
生澤繁樹さんがバーンスタインの『根源悪の系譜 カントからアーレントまで』
を取り上げお話をしてくださいました。
その話がおもしろく、また忘れられないので、
さっそく翻訳書を求めてこの休み期間中にさっそく読んでみました。
引用したのは、その結論部分に書かれていたことです。
このごろの政治状況、社会状況を考えれば、
『教育のリーダーシップ~』と併せ読むべき本だと感じます。

弊社は本日より通常営業です。
よろしくお願いいたします。

 

・おぼろ月とんがり屋根の上の上  野衾