意味の意味

 

私たちがなすことにはつねにある種の要点がある。
私たちはさまざまな計画に着手しつつ、またその間、
自らの生活を維持するためのルーティンを保ち続けている。
これらのすべてを通じて、何ものかが成長していくのかもしれない。
例えば一つの愛の人生が。
あるいは、大人になり、自分自身の人生へと旅立っていく子どもたちが。
そのように人々は何らかの価値ある有益な活動に熟達していく
のかもしれない。
しかし、
私たちはまた、
こうしたすべてが結局のところ何になるのか
という問いに突き当たることもあり得る。
いったいそれにどのような意味があるのか、と。
あるいは、
あらゆる個別の計画や
めぐり来るルーティンはそれぞれの目的をもっているのだから、
問いはより高次のものとなろう。
これら個別の目的のすべてにどのような意味があるのか、
と。
「「意味の意味」――これらすべての個別的意義の究極的な意義――
が私たちに欠けているのである」
(チャールズ・テイラー[著]/千葉眞[監訳]
『世俗の時代 下』名古屋大学出版会、2020年、p.804)

 

たしか高校生、
漱石を集中的に読み始めたころだったかな。
ニンゲンはなんのために生きるのか、と、ふと疑問が湧いた。
考えても分からず、
学校で習った進化論を盾に、
もともと生きることに意味などないのに、頭でっかちになったニンゲンは、
意味がないこととして生きるのは、つまらないし、
どうにも耐えられないから、
無理やり意味をでっちあげたのではないか、
そんなふうに理屈をこね、
ともだちに手紙を書いた(それは大学に入ってからか?)。
十代で感じた疑問はその後もつづき、
口にすることは少なくなったけど、
解消されることはなく、いまにつながっている。
登場人物が、降る雨の意味を問いかけるチェーホフの文に触れたとき、
江藤淳の自殺のニュースを知ったとき、
著名な男性の学者が高齢になりカトリックに入信した、
そのことに疑問を投げかけた女性の学者の存在を知ったとき、
また、「精神の下痢」を病んだとき、
もたげてくるのは、
ニンゲンはなんのために生きるのか、
だった。
本、マンガ、音楽、映画、
その他もろもろを飽きず探し求めるのは、
けっきょくのところ、
ニンゲンはなんのために生きるのか、
の、
答えを知りたくて、
いや、
そうでなく、
問いをもっと深く味わいたくて、読んだり、聴いたり、見たり。
答えはあるか、無いか。
文の風景、ときどきマンガ、音楽、映画は、
きょうどんな光芒を放つだろう、
それをいっぱい楽しみたいと思います。

 

・夏蝶や閉じて開いてまた閉じて  野衾