新緑の季節

 

明日から帰郷するはずのところ、
状況が状況ですので結局取りやめにしました。
いい季節になりまして、
目を瞑れば、
この時期のふるさとの山川がすぐに浮かんできますが、
ここ横浜は横浜で、
光と緑がささやき合い、じゃれ合い、語り合うかのようにしながら、
見るものの目を楽しませてくれます。
横浜といえば三渓園。
このごろしばらく遠のいていますけれど、
訪ねた折のそのときどきの光景は、
今も忘れずに覚えていて静かの時間を楽しませてくれます。
むかし勤めていた横須賀の高校に磯部という社会科の先生がおられた。
新米教師のわたしは、
磯部先生からいろいろ教わりましたが、
先生、三渓園をとても好んでおられました。
松尾芭蕉の俳句に、

 

さまざまの事おもひ出す桜かな

 

がありますが、
桜と同様、新緑もまたさまざまの事を思い出させてくれます。

さて弊社は、
明日4月29日より来月5日まで休業とさせていただきます。
5月6日より営業再開。
よろしくお願いいたします。

 

・雨ならず月のおぼろの雫かな  野衾

 

ほぼ満月

 

きのうは一日晴れていい天気でした。
帰宅途中、珈琲店で豆を買い、
スーパーマーケットで少々のおかずとおかきを買い。
ゴミ集積所の角を曲がって七十数段ある階段へ。
昇り終える寸前、
ひょいと上を見ると、
近くに住む白髪の女性がにこにこして立っていました。
「こんばんは」とあいさつ。
「そうですね。もうそんな時間ですね」
「ええ。日が永くなりました」
「さっき見たら満月がでていましたよ。ここからは見えませんが。
あら。そんなこと関係の無いことですね」
女性は少し照れ臭そうです。
「いえ。ありがとうございます」
女性にお辞儀をし、つづく坂道を上っていくと、
反対の丘の上空に満月。
いや、
下のほうが少し欠けているか。
いやいや、ほぼ満月だ。
しばらく見惚れ、
それからスイッチバックのようなカーブを曲がれば自宅。

 

・春雨にまた居るアンテナの烏  野衾

 

タ、タヌキ!!

 

いやあ、驚いたのなんの。休日の真昼間、ゆっくり本を読んでいたら、
目の前にタヌキ。ほんっと、
びっくり。
以前、自宅付近で少し弱っているタヌキを見かけた
ことはありました。
しかし、
まさかじぶんちのベランダに正真正銘
元気はつらつ野生そのもののタヌキが現れるなんて。
隣の家との間仕切りをくぐって現れ、
くんくん下に何か落ちていやしないかと
匂いを確かめる風に歩き、
反対側の隣の家との間仕切りをくぐって消えた
かと思いきや、
ほどなくしてまた現れた。
口をあんぐり開け呆けて見てい(たぶん)るちに、
もと来た隣の間仕切りをくぐり
姿を消した。
動きが猫より機敏。
ふと思った。
山の上とはいえ、
五分も歩けば国道一号線にでられる場所で野生のタヌキにお目にかかれる
というのは、
なかなか無いのでは?
そう考えたら、
この場所が前より好きになりました。

 

・春の宵深呼吸して雨となる  野衾

 

想い出はモノクローム

 

教えてくれる人がいて、さっそくパソコンを立ち上げ見てみました。
一度目は呆気に取られ、
二度目は自然と涙がこぼれ。
四十年の時を超え、
大瀧詠一のロングバケーションのあの有名なジャケットが
ミュージックビデオになって
新たに蘇りました。
プールの水面のキラキラ、太陽光線の眩しさ、
そして最後の余韻、
1秒、2秒、3秒。
クオリティの高さに驚きます。
制作にかかわった方たちの心意気が伝わってくるようです。
なるほどこういう表現もあったかと。
ソニーミュージックが配信しています。
あらためて、
大瀧詠一のすごさ、
松本隆の詞のセンスを思い知らされます。

 

・眺むれば散りてここまで桜かな  野衾

 

雲をつかむような話

 

然るに時としては、陽の位に陽爻が居るのは、
陽に過ぎ剛に過ぎるものとして凶と見ることもある。
時としては、
陰の位に陰爻が居るのは、陰に過ぎ柔に過ぎるものとして凶と見ることもある。
さうして、それと同じく、
陽の位に陰爻が居り、或は陰の位に陽爻が居るのは、
陰陽の氣分が程善く調和されて居るとして、吉と見る場合もある。
これ等は、
卦の性質即ち時代の情態によつて異なるのである。
時と處と位、即ち時代の情態と、
自分の居るところの環境と、自分の身分位地才能道徳とによつて、
適當とする情態がいろいろに變化するのである。
ここに易の活きて居る處がある。
まことに雲を攫むやうな話であるが、ここに易の貴い處があるのである。
(公田連太郎『易經講話 五』明徳出版社、1958年、pp.512-513)

 

公田連太郎『易經講話』をちりちり読んできましたが、
いよいよ最終巻「繫辭下傳」に入り、
だんだん公田さんの、うにょろもにょろの文体に慣れてきました。
とは言い条、
陰陽、もとい、引用の箇所にさしかかったとき、
なんだかなぁ、
雲をつかむような話だなぁ、
と思って読んでいましたら、あら、
公田さん自覚しているらしく
みずから「まことに雲を攫むやうな話であるが」と言っている。
本人が言うんだから間違いない。
「ここに易の貴い處があるのである」
そう言われてもなぁ。
ふと考えました。雲のこと。
雲はつかめないけれど、たしかに存在していて、千変万化する。
しかして、消えてなくなるかと思いきや、
いつの間にやら発達して大雨を降らすこともあり。
つかむことはできないけれど、
機能と役割は大いにあるわけで。
こういうところが貴いのかな。

 

・春日めく洗濯物を取り込めり  野衾

 

エキュメニズム

 

エキュメニズムは純粋な改革行動主義以上のものである。
エキュメニズムは全教会が新しく一つのキリスト教の伝統に、
すなわち、
イエス・キリスト自身の福音に集中する時にのみ
見出され実現されるものである。
その視点からのみ、
教派的な不安や不確かさが解体され、
イデオロギー的熱狂主義やルサンチマンを背負った限界は克服され、
神学的相違の背後に隠された特定の社会、階層、民族、文化文明、
および国家と結びついた経済的、政治的、および文化的もつれが解きほぐされ、
新しい自由へ向けて超越していくことが可能となる。
(ハンス・キュンク[著]/福田誠二[訳]『キリスト教 本質と歴史』
教文館、2020年、pp.876-877)

 

学校の世界史でキリスト教について習ったとき、
たとえば十字軍、宗教戦争、魔女裁判、
魂を救い、平和をもたらすはずの宗教が一体どういうことなんだ
と不思議でしたが、
年代を覚えたり、固有名詞を暗記したりして、
深く考えることをしなかった。
ハンス・キュンクの本を読みながら、
そのことを思い出しました。
こういうこころざしの高い本を読むと、胸がスッキリします。
キュンクさんは一九二八年生まれですから、
現在九十三歳。
訳者の福田誠二さんによれば、
日本語訳を出したい旨をキュンクさんに告げたとき、
とても喜ばれたそうですが、
そのとき、
じぶんが生きているうちに出してほしいと言われたのだとか。
原著者のその願いにこたえて、
この本が日本の読者に届けられたことになります。

 

・遠足の河原早日の翳りゆく  野衾

 

蜘蛛の死

 

このブログに何度か登場している蜘蛛くん、
そのうちの割と小さめの一匹が、
このあいだ、ソファの脚下で小さくなって死んでいました。
蜘蛛が出てくると、
話しかけたりもしますから、
いつの間にか親しい友人のような具合になり、
だもんですから、
ちょっとつまんで手のひらにのせ、
つくづく眺めてみた。
脚を伸ばせば大きい蟹が、縄で縛られ売られている姿にも似て、
八本ある脚をすべて縮めて、
ただの黒い小さな塊。
たまたまソファの脚下で事切れたのだとは思いますが、
なんとなく。
ただなんとなく、少し。

 

・遠足の班に先生まぎれをり  野衾