バスに乗って

 

心配性の子どもでありました。
思い出すのはバス。
仲台というバス停からバスに乗るのですが、
あの頃はまだ財布を持っていなかったはずですから、
小銭をそのままポケットに入れていた
と思います。
テレビでたまに「はじめてのおつかい」という番組をやっていますが、
あんな感じ。
もう少し大きくなっていたかな。
自家用車が家になく、
バスに乗るのだってたまにのことですから、
うきうき楽しかった、
かといえば、
そんなことは全くなく、
小銭を握りしめ、握りしめ、汗ばんでくるのもお構いなし、
なにを考えていたかといえば、
ほんとうに目的地のバス停で降りられるか、
ということ。
ブザーはなかったはず。
運転手がつぎのバス停の名を発すると、乗降口の近くに行って、
「降ります」
と告げる形式だったような。
とにかく、
ほんとうに降りられるか、乗り過ごすんじゃないのか、
乗り過ごしたらどうしよう、
そのことばっかり、
頭をぐるぐるぐるぐる駆け巡り。
そんな子どもでした。
それが今、
運命のいたずらか、カイシャのシャチョー。
シャチョーさん!
って、
待てよ、
このエピソード、
ここに書いたことなかったか?
たぶんあった。
思うに、
このエピソードを思い出すのは、
おそらく夢と似ていて、
ある一定のメカニズムがありそう。

 

・けふの日の坂のうへなるおぼろ月  野衾

 

春風新聞

 

『春風新聞』第27号ができました。
年に二回出していますから、通常ですと昨年秋に発行するはずが、
前号を配り終えてからという方針を取り、
いまの時期になりました。
今号の特集は
「都市をめぐって」
都市社会学が専門で、
今年二月に刊行した『都市科学事典』の監修
を務めてくださった吉原直樹先生との対談を収めました。
都市というとどうしても、
好きな松本大洋のマンガ『鉄コン筋クリート』
がすぐに思い出され、
対談ではそのことにも触れましたので、
対談の見出しに、
マンガの最後のほうに出てくる「ソコカラナニガミエル?」
のことばも取り入れました。
ソコカラナニガミエル?の「ソコ」を「学問」
とも読んでほしいの願いをこめました。
今号の表紙は、
ブリューゲルの『バベルの塔』
それに新井奥邃の「相敬して遠立すべし」を添えて。
コチラです。

 

・新刊を食ぶ芯まで四月の林檎  野衾

 

キリスト教は学問か

 

トマスは常に教会的栄誉を嫌って学問の人間であることに留まった。
彼はナポリ大司教並びにモンテ・カッシーノ大修道院長になり得たであろう。
しかしながら、彼はその両方を拒否した。
彼は一人の学者、一人の研究者として
――ほとんど――最期の一息まで留まったのである。
(ハンス・キュンク[著]/福田誠二[訳]『キリスト教 本質と歴史』
教文館、2020年、p.587)

 

トマスとは、トマス・アクイナス。
この本、本文だけで千ページを超える分厚いものですが、
著者の志が高いせいか、
ぐいぐい引っ張られるように読み進められます。
(たまに眠くなる)
浅くうわべを撫でるような歴史書もありますが、
一九六二年から始まる第二バチカン公会議で重要な役割を担った
ことからも推し量られるように、
彼のエキュメニカルな精神はほんもののよう、
知識だけの本ではありません。
後半も楽しみ。

 

・菜の花の息深くなる寒風山  野衾

 

タイプライターのこと

 

もう四十年も前のこと。勤めた学校の職員室にタイプライターがありまして。
使い方を教えてもらい、
試験問題だったか、
夏休みの課題図書のリストだったか、
とにかく、
用意した手書き原稿をパチパチ打ち込みました。
すると、
ふにゃふにゃだったり、また金釘流の、
けして自慢できないじぶんの文字たちが
立派な活字になって神に、いや、紙に印字されるではありませんか!
あの感動。あの興奮。
文字の世界に初めて受け入れてもらえた気がした。
しばらく忘れていました。
そのことを思い出したのは、
きのう、
わたしの操作が間違っていたのか、
ブログの管理者ページにうまく入ることができなくて、
出社後に会社のパソコンから入ったことがきっかけでした。
わたしにとりまして、
このブログ、
一日の始まりの大事なルーティンでありまして、
「外なる人」は衰えても、
「内なる人」は日々新たにされていく、
そんな感じなんであります。
なんの不具合か、
それがふだん通りできなくなったとき、
あらためて、
日々の習慣がいかに大事であるかということを思い知らされました。
敬愛していた詩人の長田弘さんは、
おっしゃいました、
習慣がふるさとだと。

 

・真人も踏みしふるさとの春山  野衾

 

フーコーと聖書

 

ミシェル・フーコーの遺作『性の歴史 Ⅳ 肉の告白』が、
フーコー没後三十数年経ってようやく
二〇一八年にフランスで出版され、
その日本語訳が昨年一二月に出版されました。
わたしはかつて『性の歴史』のⅠ~Ⅲまでを買っていたのですが、
まぁ、Ⅳが出たらまとめて読むわ、
と、
棚に並べて置いていた
のですが、
いくら待ってもいっこうに出る様子がなく、
そのうち興味関心もとこへやら、
古本屋を呼んでどっさり売ったとき、
『性の歴史』三冊も、
読まずに処分してしまいました。
あれから三十年、
綾小路きみまろめきますが、
ぐるぐる興味関心が経めぐり、
そうしているうちにわたしはとっくに還暦を過ぎ、
じぶんことを振り返ったとき、
またこの間の読書を通じて
人類の歴史を振り返ってみたとき、
性の歴史は、
いわば人間と人類の背骨であるな
と感じるわけで、
ようし、
せっかくだから、まとめて読んでみよう、
という気持ちになり、
Ⅳは新刊で、
Ⅰ~Ⅲは古書で求めました。
ゆっくり、味わいながら読みたいと思います。
ところで、
Ⅳの巻末にある引用文献索引を見て驚きました。
聖書からの引用がふんだんになされていることが分かります。
アーレントを読んだときも感じましたが、
フーコーもまた、
じぶんの勉強と思索の基礎に聖書を置いている。
そうか。
フーコーは、
一巻目を書いた後、
執筆の構想において大きく舵を切ったそうですが、
その要因の一つが聖書にあったか、
との想像も湧いてきます。
そのことも含め、
じっくり読みたいと思います。

 

・意識はあれど春眠の眼裏  野衾

 

 

パラダイムという色眼鏡

 

カール・バルトとの関連で、
ハンス・キュンクの『キリスト教 本質と歴史』(福田誠二[訳])を
おもしろく読んでいるところですが、
浩瀚な本のページを捲るごとに、
目から鱗が落ちるとはこういうことかと感じることしきりで。
目次を見ると、
大分類がA.本質への問い、B.中心的な事柄、C.歴史
とありまして、
このC.歴史の記述がすこぶる面白い!
Cの分類はさらに、
Ⅰ.原始キリスト教のユダヤ教的・黙示的パラダイム
Ⅱ.キリスト教古代のエキュメニズム的・ヘレニズム的パラダイム
Ⅲ.中世のローマ・カトリック的パラダイム
Ⅳ.宗教改革のプロテスタント的・福音主義的パラダイム
Ⅴ.近代の理性志向的・進歩志向的パラダイム
となっており、
要するに、
歴史の変化をパラダイムシフトとして捉えていることが分かります。
なかの具体的な記述を、
ふんふん、ふんふん、へ~、ほ~、そうなん、
と、
偉いお坊さんのお話を聴く具合に読み進めているうちに、
パラダイムという思考の枠組みを通してしか私たちは歴史を見ることができない
のではないか、
さらに、
いま現在の私たちも、
やがては過ぎていくいま現在の虹色パラダイムによってしか
自己を、他者をとらえることができない
のではないか、
パラダイムという色眼鏡を取り外して真実に向かうことは叶わない、
太陽を裸眼で凝視できないように、
そういう感情が湧いてきて、
こういう思考は、
どこかミシェル・フーコーと重なる気もし。
本が分厚いという事もありますが、
印象としては、
大河小説、たとえばトルストイの『戦争と平和』
とか、
あるいは、
小説でなければ、
マルクスの『資本論』を読んでいたときの体験・感覚
に近いような。
しばらく楽しめそうです。

 

・花曇り蒼穹の下止まらず  野衾

 

倦まず弛まず

 

神農氏沒して、黄帝・堯舜氏作《おこ》り、其變を通じて、
民をして倦まざらしめ、神にして之を化して、
民をして之を宜しとせしむ。
……………
人間の心は、まことに奇妙なものであつて、
勿論、亂世が長く續くときは、
亂世に飽き厭ふことは申すまでも無いのであるが、
泰平安樂が長く續き、文化が爛熟すると、これにも飽きるやうになり、
何か事有れかしと思ふやうになる。
然うなると、恐るべき結果ともなるのである。
(公田連太郎『易經講話 五』明徳出版社、1958年、pp.346-348)

 

編集者生活がだいぶ長くなりましたが、
一冊一冊緊張を強いられ、それを持続しなければならず、
経験は生きるけれど、
一冊一冊がどれも、いつも新しいので、
飽きるということがなく、
じぶんの性格を考えてみたとき、
この仕事がことのほかありがたく感じられ、
ほかの仕事であれば、どうだったかと思うことしきり。
公田連太郎の『易經講話』は最終巻、
繫辭下傳に入りました。
諄々と説かれ、これも飽きない。
公田さん曰く、
明治維新のときの五箇條の御誓文
「人心をして倦まざらしめん事を要す」の一句は、ここから出たものであろう。

 

・春光や鎮守の森の陰あえか  野衾