雲をつかむような話

 

然るに時としては、陽の位に陽爻が居るのは、
陽に過ぎ剛に過ぎるものとして凶と見ることもある。
時としては、
陰の位に陰爻が居るのは、陰に過ぎ柔に過ぎるものとして凶と見ることもある。
さうして、それと同じく、
陽の位に陰爻が居り、或は陰の位に陽爻が居るのは、
陰陽の氣分が程善く調和されて居るとして、吉と見る場合もある。
これ等は、
卦の性質即ち時代の情態によつて異なるのである。
時と處と位、即ち時代の情態と、
自分の居るところの環境と、自分の身分位地才能道徳とによつて、
適當とする情態がいろいろに變化するのである。
ここに易の活きて居る處がある。
まことに雲を攫むやうな話であるが、ここに易の貴い處があるのである。
(公田連太郎『易經講話 五』明徳出版社、1958年、pp.512-513)

 

公田連太郎『易經講話』をちりちり読んできましたが、
いよいよ最終巻「繫辭下傳」に入り、
だんだん公田さんの、うにょろもにょろの文体に慣れてきました。
とは言い条、
陰陽、もとい、引用の箇所にさしかかったとき、
なんだかなぁ、
雲をつかむような話だなぁ、
と思って読んでいましたら、あら、
公田さん自覚しているらしく
みずから「まことに雲を攫むやうな話であるが」と言っている。
本人が言うんだから間違いない。
「ここに易の貴い處があるのである」
そう言われてもなぁ。
ふと考えました。雲のこと。
雲はつかめないけれど、たしかに存在していて、千変万化する。
しかして、消えてなくなるかと思いきや、
いつの間にやら発達して大雨を降らすこともあり。
つかむことはできないけれど、
機能と役割は大いにあるわけで。
こういうところが貴いのかな。

 

・春日めく洗濯物を取り込めり  野衾