生きられる時間

 

世俗の時間への人間の包摂は、
人々の生き方や生活の整序化の仕方における変化の所産でもある。
脱魔術化をもたらしたのと同じ社会とイデオロギー上の変化が、
こうした事態をもたらしたといえよう。
とりわけ、
近代文明の秩序を作り上げた諸規律が、
人類史でも類例をみない仕方で時間を計測し組織化する道筋をつけたのである。
時間は貴重な資源になったのであり、
「浪費」してはならない。
その結果は、
凝集され整序された時間環境の創出であった。
こうした時間の管理が人々の生活を包み込み、
時間はやがて自然のように見られるようになった。
人々は、
そのなかで均一的かつ単純な世俗の時間を生きる環境を構築してきたのである。
人々は、
事を済ませるためにこの世俗の時間を計測し管理しようとしてきたわけである。
この「時間の枠組み」は、
おそらく近代の他のいかなる局面以上に、
「鉄の檻」という有名なウェーバーの記述を説明するものといえよう。
それはすべての高次の時間を閉塞させ、
それらを構想することすら困難にさせていった。
(チャールズ・テイラー[著]/千葉眞[監訳]
『世俗の時代 上』名古屋大学出版会、2020年、pp.75-76)

 

四十年ほど前、横須賀にある高校に勤めていたころ、
職員室のお茶飲み場で数名の先生がくつろいでいたとき、
授業から帰ってきた数学の先生が、
なんの話からそうなったのか忘れてしまいましたが、
そもそも時間とはなにか、
ということを話題にし始めた。
わたしは、勤めて間もない時期だったし、
だまって聴いていただけですが、
うまく説明できないけれど、なんだか違和感を感じたことだけは覚えています。
その違和感に触れる内容がテイラーの論考にある気がして
読みはじめましたが、
引用箇所はそのこととも関連しています。

 

・ドア近くあや取りの子ら初夏の風  野衾