春風と野

 

弊社創業20周年を記念してつくった冊子『春風と野(や)』
にご寄稿いただいた方々の名まえとタイトルをご紹介します。

収載順に、

佐々木幹郎「花の子どもたちは転がり落ちる」

閒村俊一「春風譚」

冨士眞奈美「春の坂」

吉行和子「春の恋」

晋樹隆彦「春の風」

池内紀「アメンボ」

吉原直樹「寒風が吹きすさぶ荒野に立って」

矢萩多聞「足もとの野」

田中典子「野を渡る春風」

阿部公彦「英文学的アクティブ・ラーニングの極意」

松原好次「さあ 遊びだ 勉強だ 手伝いだ……」

長田年伸「たんなる紙の束の」

栗原詩子「装本・装丁のこと」

鈴木哲也「業を背負うて春風のごとくに」

河瀬幸夫「春風と燕」

尾﨑保子「春風さんと介護」

小野寺功「「春風社」との出会い」

ソーントン不破直子「「春風と野」に寄せて」

末松裕基「見えない遠心力の会へようこそ」

桂川潤「時は、積もる」

中条省平「春風と野をめぐる閑話」

大嶋拓「ふるさとの匂い」

横須賀薫「坂を上る」

橋本照嵩「幸運の春風社」

 

熟読玩味しつつさらに社業を展開し、
お役に立てるよう深く掘りすすめたいと思います。

 

・いつの間にこの峠まで鰯雲  野衾

 

青空

 

矢沢永吉の40周年記念ライブを収めたDVD『BLUE SKY』が気に入って、
なんどか見ているうちに、
「黒く塗りつぶせ」
の歌で聞き取れない箇所があり、
たしかめようと思ったら、
付属のブックレットに歌詞は無し。
さっそくパソコンを立ち上げ
「黒く塗りつぶせ」
と入力するや、
2009年に行われた東京ドームでのライブ動画の1コマがでてきた。
興味が湧いてそれをクリック。
あいかわらず、矢沢カッコイイ、サイコー、
気持ちよく見ていると、
スペシャルゲストとして
BOØWYの氷室京介とTHE BLUE HEARTSの甲本ヒロト・真島昌利が登場し、
なんともぜいたくな「黒く塗りつぶせ」
でありました。
氷室が歌うと氷室の「黒く塗りつぶせ」
甲本が歌うと甲本の「黒く塗りつぶせ」
さすが。
そして三人そろって「黒く塗りつぶせ」
ひとも世も真っ黒く、
朝から晩までナイランデイだよ!
せいせいし
YouTubeを閉じようとして、
ふと見ると、
「NHKに問い合わせが続出したブルハ伝説のTV出演 其の壱 青空」
なる文字が目に飛び込んできた。
おもしろそうなので、
さっそく再生。
泣けてきた。
いや、泣かなかったけど。
正確にいうと、
泣きそうになりました。
うつ病を患っていたときにもし聴いていたら、
まちがいなく
大泣きしていたろうと思いました。
作詞・作曲は真島昌利。
名曲です。
ザ・ブルーハーツもわたしにとりまして
矢沢永吉と同じく、
その名を知っていても、
ちゃんと聴くことをしてきませんでした。
こういう人や世界がほかにもたくさんたくさんある気がします。
ともかく、
THE BLUE HEARTSの青空、
すばらしい!!

 

・野分あとものみな黙(もだ)す碧さかな  野衾

 

デカルトとデカルト主義

 

デカルト自身が生きて考えたことと、
そのあとの人々が受け継ぎ発展させたデカルト主義とのあいだにずれがあることも、
一つの問題だと思います。
ヨーロッパの機械論的な自然観や合理主義的な哲学も、
デカルトの基本的構想が基盤にあるし、
近代科学も大きく見れば、そこから発展してきた。
あらゆる面でデカルト主義は大きな流れになったのですが、
デカルトそのものには、
思考においても学問においても生き方においても、
それだけでは汲み尽くせない豊かさとしなやかさがあったように思えます。
(谷川多佳子『デカルト『方法序説』を読む』p.170、岩波書店、2002年)

 

古典を読むことのたのしさ、おもしろさ、
また要諦はそこにあると感じます。
大学生のとき、
ある政治的なグループに入るよう、
わたしのアパートにまでやって来た四人がいました。
さかんにマルクス・レーニン主義をペラペラしゃべっていましたが、
主義主義主義でなんともうるさい。
わるい癖でわたしはだんだん熱くなり、
『資本論』について質問をしました。
四人とも、
ほとんどなにも答えられませんでした。
バカヤロウ!!
とは言いませんでしたが、
ああ、
この人たちは『資本論』を読んでいないな
と思いました。
マルクスとマルクス主義とは違う
ということをそのときはっきり知りました。
またそのたぐいのことは、
ひとりマルクスにかぎらないことをその後の人生で学びました。
古典は、
なによりもまず、
じぶんでゆっくりしずかに読むにかぎります。

 

・吾を打ちし友を思ほゆ赤蜻蛉  野衾

 

笑いとユーモア

 

シモーヌ・ヴェイユの本に邦題『重力と恩寵』という本があり、
読もうと思って本棚の手の届くところにありながら、
まだ読んでいません。
重力って何?
物理のことではないと思うけど…。
シモーヌの先生は、
フランスのソクラテスとも称された哲学者のアランで、
シモーヌは、
アランからふかく影響を受けたようです。
アランの『定義集』に関する本を読んでいたら、
にんげんは、
生きていると自然に悲観的になってしまう、
それは普通のことであって、
そうならずに笑いとユーモアをもって生きるには工夫が要る
というようなことが書かれてある箇所があり、
ヴェイユのいう重力って
ひょっとしたらそういうことかな?
って思いました。
いや、
まったくの見当はずれ
の可能性もあります。
しかし、
仮に見当はずれであっても、
ある見込みをもって読みはじめるというのも
読書の醍醐味のひとつ。
見当はずれもまたたのし! うん。

 

・赤蜻蛉むかしのことは忘れたよ  野衾

 

逆臣は歴史によみがえる

 

私はおそれる――近き将来、この憲法が書き換えられ、わが国に軍備が再編成され、
それに適応する体制がとられることがあっても、
人々は怪しまないのではないか、と。
さらにおそれる
――国民の一部の間には、好機到来せりとなし、
再び戦争に参加し、わが国失地の回復を考えるものはないか、と。

 

うえのことばは、
第二次世界大戦での敗戦後、
東京大学の初代総長をつとめた南原繁が、
1950年11月5日に高松で講演した話のなかに出てきます。
岩波書店発行「南原繁著作集」第七巻『文化と国家』に収録されているそうですが、
わたしが読んだのは、
著作集ではなく、
1996年に東京大学出版会から発行された
『わが歩みし道 南原 繁――ふるさとに語る――』
著作集から転載した
と但し書きが添えられています。
この文章を読み、
いまの日本のありさまを思わずにはいられません。
それと、
学生の頃からずっと愛読してきた中野好夫の
「逆臣は歴史によみがえる」
の文章を思い出しました。
「逆臣は~」は、
筑摩書房刊『中野好夫集Ⅳ』に収録されています。
こちらは、
1969年12月に発表されたもの。
ちょうど半世紀前にあたりますが、
これも時代を洞察することばであると思います。

 

・秋あかね空いつぱいの友のかほ  野衾

 

秋の風

 

十月に入ったとはいえ、
気温30度ちかい日がつづいています。
まだ夏服でじゅうぶん。
が、
風は明らかに夏でなく秋のもの。
古今和歌集にある藤原敏行の「秋来ぬと~」の歌が
千年の時を超え沁みてきます。
エノコログサが風に揺れ目を楽しませてくれます。
秋に対応する色は白。
白秋。
臓器でいうと肺に関係しており、
山芋、アーモンド、落花生、白きくらげ、れんこんなどの食べ物がよい
とされています。
代田文誌の『沢田健聞書 鍼灸真髄』にならい、
身柱への灸は欠かせません。

 

・ねむたさや旅のをはりの九月尽  野衾

 

掘り出す

 

夫から苦しめられて虐待されているある婦人が、私に、
夫がその悪い性質のために、自分を死ぬほどに苦しめることが度々あると、
話したことがあった。
しかし、自分は夫のもとでこの歳月、耐え忍んできたし、
最後まで耐え忍んでゆこうと決心していると、言っていた。
(そのうち、彼女は死というただ一つ可能な離婚によって、解放された。)
しかし、そのとき、彼女は、それにつけ加えて、
「私を苦しめる夫からも、時にはけしつぶほどの善意が流れ出ることがあるのを、
この苦しみの数年の間に発見しました」と、言った。
もちろん、
そのためには、
彼女は、ちょうど金鉱を探す人のように、
長い間探し求め、発見するまで目をこらして、
深いところまで掘り進まなければならないのであった。
そして、
彼女はさらにつけ加えて言った。
「それで私は、夫を、毎日いわば掘り出さなければならないのです。」
――この「掘り出す」という言葉を、私は忘れることができない。
……………

 

大塚野百合・加藤常昭編『愛と自由のことば 一日一章』
(日本基督教団出版局、1972年)に収録されている
スイスの著名な説教者で牧師のヴァルター・リュティのことば。
九月三十日のことばがこれでした。
いろいろに考えさせられます。
さてきょうから社業21年目です。

 

・和(なご)かるや深くなりゆく秋の空  野衾