分岐点

 

というのは、私は身体以外の物体からは切り離されることができるが、
それと同じように身体から切り離されることはできはしなかったからである、
欲望と感情とのすべてを身体において、
かつ身体のために私は感覚していたからである、
そして最後に、
苦痛と快楽の擽りとに私は、身体の部分において気づいていた、
が[しかし]、
身体の外に存する他の物体においては気づくことがなかった、からである。
なぜ[実は]しかし、そうした何か知らぬが
苦痛の感覚からは心の或る悲しみが、
そして擽りの感覚からは或る喜びが、相伴われてくるのか、
またなぜ、
飢えと私の呼んでいるところのあの何か知らぬが
胃のいらだちは、食物をとることについて私に告げ知らせるのか、
咽喉の乾きは[実は]しかし、飲料をとることについて告げ知らせるのか、
その他のものについても事情がそのようになっているのはなぜであるか、
については、
私が自然によってそういうふうに教えられているから、
という以外には、
他の理由を私は別段もっていたわけではないのである。
というのは、
そうしたいらだちと食物をとろうとする意志との間には、
ないしは苦痛をもたらす事物(もの)の感覚と
そうした感覚から起成した悲しみの思惟との間には、
全く何らの類縁性も(少なくとも私の知解しうるところでは)ないからである。
(デカルト/所雄章・宮内久光・福居純・廣田昌義・増永洋三・河西章[共訳]
『デカルト著作集 第2巻 省察および反論と答弁』白水社、1973年、pp.97-98)

 

ここに身体の不可思議にかんするデカルトの表現が見られます。
思考と思索の経緯を伴いつつの。
二十代のころ、
『知覚の現象学』をはじめ、
メルロ・ポンティの主な著作を
翻訳を通じてですが、
精力的に読んだ時期がありました。
ものごころついてからずっと付き合ってきたじぶんの身体
の不思議に驚き、
おもしろく読んだのですが、
そのことによって身体の不思議が解消されることはありませんでした。
今回、
デカルトの『省察』をすこしずつ読み進めながら、
メルロ・ポンティもふくめ、
その後の哲学者たちがなぜデカルトを問題にするのか、
その一端が垣間見られた気がします。

 

・沈没しあとは野となれ夢の秋  野衾