デカルト自身が生きて考えたことと、
そのあとの人々が受け継ぎ発展させたデカルト主義とのあいだにずれがあることも、
一つの問題だと思います。
ヨーロッパの機械論的な自然観や合理主義的な哲学も、
デカルトの基本的構想が基盤にあるし、
近代科学も大きく見れば、そこから発展してきた。
あらゆる面でデカルト主義は大きな流れになったのですが、
デカルトそのものには、
思考においても学問においても生き方においても、
それだけでは汲み尽くせない豊かさとしなやかさがあったように思えます。
(谷川多佳子『デカルト『方法序説』を読む』p.170、岩波書店、2002年)
古典を読むことのたのしさ、おもしろさ、
また要諦はそこにあると感じます。
大学生のとき、
ある政治的なグループに入るよう、
わたしのアパートにまでやって来た四人がいました。
さかんにマルクス・レーニン主義をペラペラしゃべっていましたが、
主義主義主義でなんともうるさい。
わるい癖でわたしはだんだん熱くなり、
『資本論』について質問をしました。
四人とも、
ほとんどなにも答えられませんでした。
バカヤロウ!!
とは言いませんでしたが、
ああ、
この人たちは『資本論』を読んでいないな
と思いました。
マルクスとマルクス主義とは違う
ということをそのときはっきり知りました。
またそのたぐいのことは、
ひとりマルクスにかぎらないことをその後の人生で学びました。
古典は、
なによりもまず、
じぶんでゆっくりしずかに読むにかぎります。
・吾を打ちし友を思ほゆ赤蜻蛉 野衾