ええ、大上段にかまえた言い方をすれば、
学問の進歩というものは、
先行研究を踏まえ、それを批判することによってなされる
もののようでありまして、
そうしますと、
批判という行為を通じて、批判の対象とした思想と、より深くつながる
あるいは、
深くつながろうとして批判するのかな、
なんてことをつらつら考えて
いましたら、
こういうつらつらの思考にリンクする考えを
以前どこかで読んだことがある、
そんな気がして、
ありそうな場所をごそごそやっていましたら、
ありました。
批判とは自他を区別することである。
それは他者を媒介としてみずからをあらわすことであるが、
自他の区別がはじめから明らかである場合、批判という行為は生まれない。
批判とは、
自他を包む全体のうちにあって、
自己を区別することである。
それは従って、
他を媒介としながら、つねにみずからの批判の根拠を問うことであり、
みずからを批判し形成する行為に外ならない。
思想はそのようにして形成される。
儒家の批判者として生まれた墨家、その墨家の対立者として起った楊朱、
またその楊墨の批判者として登場する孟子、
それを儒家の正統にあらずとする荀子など、
諸子百家とよばれる戦国期の多彩な思想家の活動は、
このような批判と再批判とを通じて展開された。
(『白川静著作集 6 神話と思想』平凡社、1999年、p.405)
・五月雨や空に軋む鉄の車輪 野衾