『古今和歌集』でなく『新古今和歌集』にも貫之さんの歌は入っていて、
たとえば、
雪のみや降りぬとは思ふ山里にわれもおほくの年ぞ積れる
峯村文人(みねむら ふみと)さんの訳は、
雪だけが白く降り積って、古くなったと思おうか、そうは思わない。
わたしも、白髪がふえて、多くの年が積っていることだ。
積もるモノといえば、まず雪を想像します。
新沼謙治さんの歌に『津軽恋女』というのがありまして、
歌詞にいろいろ雪の名まえがでてきます。
名称がいくつかあるということは、
微妙な違いを味わい分けつつ、
対象に向かう意識がそれだけ強いということかもしれません。
作詞は久仁京介(くに きょうすけ)さん。
新潟県出身とのことですから、
積もる雪は実感としてあるのでしょう。
また新沼さんは岩手県出身なので、
彼は彼で、実感としての雪をもっているはずです。
『津軽恋女』に、
「春待つ氷雪」という文句がでてきますが、
積もれば積もるほど待ち遠しいのは春、ということになるでしょうか。
積もるのは雪だけでなく、
そこに年や時が折り重なっているとなれば、
なおいっそうです。
そういう雪と時間の重なりを踏まえると、
たとえば『万葉集』にある志貴皇子(しきのみこ)さんの歌に圧倒されます。
石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
よろこびが爆発するようです。
・真つ青や盛夏灯台かもめ越ゆ 野衾