ものぐるほしき「現在」

 

読みたい本のリストが頭のなかになんとなくありまして、
それにしたがって日々
あれこれ読んでいるのですが、
これまたなんとなく、
先の内容が見えてくるような気がするとか、
読む行為を駆動していく文章の力が衰えてきたのでは?(=つまらない)
と感じはじめ、
そうなると、
本から顔を上げ、しばし黙然と宙をにらむ具合。
つまらないと感じはじめたのは、
読んでいる本にその原因があるのか、
それともわたしの側にか、
はたまた双方にか、
そんなことをつらつら考え始めると、ものぐるほしき気持ちがもたげてきて、
寄り道ならぬ寄り本に手をのばす、
ことになります。

 

頼山陽は一世の才人であった。後世は彼に文豪の名を与えることさえ躊躇しなかった。
(明治三十年代のはじめに民友社から続刊された、
『十二文豪』という叢書の一冊は、森田思軒の山陽論であり、
山陽はこの叢書のなかでゲーテやユーゴーやトルストイと肩を並べている。)
しかし、
二十歳を過ぎたばかりの頼家の放蕩息子久太郎は、
ひたすら後年の山陽となるために生きていたとは言えないだろう。
二十歳の久太郎と四十歳の山陽とは、
結果として見れば(この八文字に傍点――三浦)連続した一人格であるとしても、
その連続は極くゆるやかであり、
当時の久太郎の行動を全て、
完成した山陽像の一部にはめこもうとすれば、
様々の無理がでてくる。
先程も述べたように、
完成した山陽像は、
多くの彼の可能性の切り捨てによってのみ成立している
のである。
(中村真一郎『頼山陽とその時代』中央公論社、1971年、pp.33-4)

 

いまこの本は、文庫で買えるようです。
中村さんは小説家ですが、
わたしの印象にのこっているのは、
小説でなく、
菅原道真さんについて書かれた短い文章で、
高校で教員をしていたとき、図書室で読んだのでした。
短いこともあって何度か繰り返し読んだ。
ゆっくり読んだ。
ゆっくり読んでいると、
黙読しているのに、
声を出して読んでいるように感じられ、
その声に、
耳にしたことのない中村さんの声が、重なってくるような気がした。
気持ちがだんだん落ち着いてくる
ようでもありました。

 

・五月雨や手すりに栗鼠の姿なし  野衾