本はこころの付箋

 

どのジャンルの本にかぎらず、本を読んでいて、
ふと、
じぶんの過去のエピソードがまざまざと蘇ることがあります。
もし、その本のその箇所を読んでいなければ、
思い出さなかったかもしれない、
そう思えることが少なくありません。
読んでいる本に目印として貼り付ける小さな紙片を付箋といいますが、
一冊の本はまた、
じぶんの記憶をよみがえらせる、
いわばこころの付箋といっていいかもしれません。
たとえば、下の文章。
わたしがまだ子どものころ、
村の政治家が家にやって来て、近所の人たちも集まっていたときに、
奥の部屋で小さく固まり、おとなしくしていたのに、
おじさんが部屋まで来て、
「○○さんにあいさつしなさい」
と言った。
「いつか世話になるかもしれない」と言われたので、
なんだかプツンとキレて、
「おら、あの人にだきゃ、世話にならね」
と言い返し、
柱につかまって泣いたこと
がありました。

 

「成熟」ということばは、人間に適用されると、わたしには不気味な感じがした。
そして今もなお不気味な感じがする。
そのことばを聞くと、
貧困、萎縮いしゅく、消耗というようなことばが、
不協和音といっしょに鳴りひびいてくる。
普通に人間の成熟と見られているものは、
あきらめの分別である。
わたしたちはほかの人たちを模範とし、
自分が少年のころ重要視していた思想や確信をつぎつぎと放擲ほうてき
することによって、
成熟を手にいれるのだ。
前には真理の勝利を信じていたのに、
今ではもう信じない。
前には人間を信じていたのに、
今ではもう信じない。
前には善を信じていたのに、
今ではもう信じない。
前には正義に熱中していたのに、
今ではもう熱中しない。
前には善意と寛容との力を信頼していたのに、
今ではもう信頼しない。
前には感激することができたのに、
今ではもう感激することができない。
人生の危険なあらしをうまく乗りきるために、不要と思う荷物を投げすてて、
ボートを軽くしたのだ。
ところが、
放棄したのは食料と飲料水であった。
今では船足かるく進んでいくが、
乗っている人は憔悴しょうすいしつつあるのである。
(生い立ちの記)
(アルベルト・シュヴァイツァー[著]浅井真男[編]『シュヴァイツァーのことば』
白水社、1965年、pp.312-3)

 

・泥臭き沼を這ひ来る夏の風  野衾