師範教育の原点

 

彼は並み並みならぬ心理学的な才能を有つてゐたので、
――何時でもさうするのが例になつてゐたが――
僅かに二三分一学級に現はれるだけで、
彼れの見たことに就いて往々最も細かな心理学的な注意を教師に与へることが出来た。
彼は数学のどの部門かの教授をしてゐる学級に顔を出すのが
この上もなく嬉しかつた。
その場合に
授業が活発に行はれてゐればゐるほど、
騒ぎが大きければ大きいほど、
また生徒達の眼が輝けば輝くほど、
ペスタロッチーは強く、親切に、満足げに教師の肩を叩いて、
それから一言も言はず教室を出て行くのだつた。
(ハインリヒ・モルフ[著]長田新[訳]『ペスタロッチー伝 第四巻』岩波書店、1940年、
p.380)

 

引用した文章は、ペスタロッチーさんの学校で教師をしていたラムザウアーさん
の発言。
文中の「彼」はペスタロッチーさんを指しますが、
群馬県島小学校で一時代を画した斎藤喜博(さいとう きはく)校長も、
同じように、
ほかの先生たちの授業に割り込むことがあった
ようです。
「横口授業」とか「介入授業」
の名称でよばれていました。
斎藤さんは群馬師範学校を卒業しています。
「師範学校の父」とよばれ、
日本にペスタロッチー主義の教育をもたらした高嶺秀夫さんは、
いまの福島県会津若松市のご出身。
アメリカのオスウィーゴ師範学校に留学し、
ペスタロッチー主義の教育を直に親しく学んだ人ですが、
たとえば、
引用したペスタロッチーさんのエピソード
のなかに、
師範学校、師範教育の原点である直観と洞察
の具体的なありようを垣間見る
思いがします。
また、
栗山英樹さんが「不世出の哲学者」とよんだ森信三さんは、
広島高等師範学校のご出身。
森さんは「洞察の人」であったと、
親しくさせていただいている哲学者の小野寺功先生から、
エピソードを交え、
ことあるごとに伺っています。
栗山監督の「栗山野球」のWBCでの勝利は、
ある意味で、
日本に根付いている師範学校、師範教育の全面展開であった
という見方も成り立つ気がします。
栗山英樹さんは東京学芸大学のご出身。
東京学芸大学の前身は、師範学校にあります。

 

・薄墨を空に一はけ走り梅雨  野衾