あたりまえを疑ってみる

 

私たちは寮制度など全く知ることのない状況から出発したのである。
生徒たちは都市の市民の家に下宿し、
家長の権威であれ学校の権威であれ、
いかなる権威からも自由であった。
かれらの生活様式を、
独身の大人のそれと区別するものはほとんどなにもなかった。
その後、
教師たちと生徒の親たちは、
この自由が過度なものであると判断するようになる。
学院のなかで、権威的かつヒエラルヒー的な規律が確立されてくる。
この規律はさらに拡大されていき、
自分の裁量で毎日を過している生徒たちにも課されるべき
であると考えられるようになる。
こうして、
初期にはなおかなり緩やかなものであったが、
学院とは別に学生寮が生れる。
それ以後になると、
学校教育には大人の生活に入るための準備以上のことが要求されるようになる。
すなわち
(パブリック・スクールにおける「紳士」のように)
一種の人間個人の教育が要求される。
かつての時代には、
子供はまだひどく若いだけの大人であるとして子供を排除しないでいた社会
に対して、
学校に対するよりも多くのことが要求されたのであったのだが。
ナポレオン的学校体制のもとでのリセにおいても、
フランスの田舎の中等神学校でも、
イギリスのパブリック・スクールでも同じように感知しうるこの人格形成への配慮は、
十六世紀・十七世紀の寮監では知られていなかったものである。
人文主義的で、
かつキリスト教的な教養を教えていた人びとは、
ある類型の社会的理想といったものを生徒たちに押しつけようとはしていなかった。
(フィリップ・アリエス[著]杉山光信・杉山恵美子[訳]
『〈子供〉の誕生 アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』1980年、
みすず書房、pp.268-9)

 

おとなになる前の、いわゆる「子ども時代」という考え方は、
いまはごくふつうの、いわば、あたりまえの考え方であるわけですが、
あたりまえだと思っていることは、
ほんとうにあたりまえなのか、そうなのか、
と疑いをさしはさみ、
調べてみたら、
あ~らら、
なんだ、その考え方って、
あたりまえでも、ふつうでも、なんでもなくて、
時代の変化、時代の要請によって作り出されてきた観念だったのか、
そうか、そうだったのか!
と、
驚きを以て、
じぶんの立っている地面の安定がぐらつき、
疑わしくなってくるというのも、
ていうか、
それこそが、
学問のおもしろさであると思います。
アリエスのこの本など、
その最たるものと言っていいかもしれません。
この本では、
アンシャンレジーム期の子どもを取り上げていますが、
ペスタロッチは、その期につながる人間として、
教育の近代をひらいて行くことになります。
引用した文との関連でいうと、
アンシャンレジーム期以後の人でありますけれど、
子どもたちにキリスト教的な信条科目を教えてはどうかと勧められたとき、
ペスタロッチは、それを断っています。
その意味で、
アリエス流の子ども観、歴史観を超え、
古い時代の本質、
よきところをよきところとして次代に引き継ごうとする精神がある、
とわたしは感じます。
ところで、
引用しようとして気づいたのですが、
この本、
「アンシャン・レジーム」のカタカナ表記が、
「アンシァン・レジーム」になっていて、
ちょっとおもしろい。

 

・水滔々と枝先のかたつむり  野衾