聖書の読み方

 

われわれは、聖書を読む時に、
何か自分の気持に同情してくれるようなものは、どこかにないか
と思いながら読むものです。
あるいは、
ほんとうは、人生相談に行って聞きたいことなのだけれど、
聖書の中にそんなことは書いてないか、と思って探すでありましょう。
あるいは、
この世に生きていく哲学はないか、と探したりするのです。
しかし、その時、欠けている大事なことは、
聖書は、王様が、絶対の権威をもって、お前の罪はもう赦した、
お前は赦されたのだ、
ということを聞かせようとしているのを予想して読むことだと思います。
もしそれを求めていなければ、
聖書は、ほんとうの力にはならないのであります。
(竹森満佐一『わが主よ、わが神よ イエス伝講解説教集』教文館、2016年、p.132)

 

もしも、
聖書がこのようにして読む本だとした場合、
これはなかなか難しい。
そんなふうに読む本はほかになさそうだから。
娯楽のために読む本、
理解しようとして読む本ならいろいろありますけれど。
聖書が難しいのは、
哲学書が難しいのとはどうやら違っていそうです。

 

・人なき公園ブランコすずし  野衾