除湿モードにセットしてあるエアコンから出る水が一定の量になり、
ベランダの溝に向かってながれていきます。
部屋の空気中に、
これだけの水分が紛れているのかと思うと、
驚きです。
と、
ダンゴムシ。
ちょこちょこと現れ、ながれる水に近づき、
水を飲むでもなくすぐに水から離れ、
離れたかと思いきや
また近づき、
それを何度も繰り返します。
その動きを見ているうちに、かれの声が聞こえてくる具合。
なんだこれは!?
さっきまで何もなかったのに。
道が完全に塞がれてしまったではないか。
どうすんべーどうすんべー。
こまったあ。こまったあ。
こまったぁ。
やがて。
川の横断をあきらめ、
室外機の下に潜り込んだようでした。
・はたた神気象炸裂雨来る 野衾
このごろ秋田に電話すると、
父の言葉のなかに割と頻繁に登場する単語がありまして。
それが
「なとだてな」
新型コロナの感染が収まらないことを嘆く場面でつかわれます。
「いったいぜんたい、どうなってるんだ、まったく」
ぐらいのニュアンスでしょうか。
方言は、
いずれ劣らずそうですが、
表記がむずかしく、
「なとだてな」の場合も、
はじまりの「な」と、
2音目の「と」のあいだに、
ほんの小さく撥音の「ん」が入るようです。
仮に字の大きさで言うならば、
「なとだてな」の5音が16ポイントだとして、
「ん」は6ポイントぐらい、
いや、
もっと小さいかもしれません、
読めないぐらいに。
お盆もどうやら帰省が叶わぬようですから、
せめて馴染んだ言葉で、
ふるさとを味わうしかありません。
・祖母屈み居る屋根付きの井戸清水 野衾
漢字を通して「東洋」を引き寄せようとする白川さんと
万巻の精読から古代中国を知ろうとした中江丑吉との関わりは、
しかしこれはたやすく新聞記事などになる話でない。
書物を読む奥義について、
白川さんは三つのことを挙げた。
一、志あるを要す。
二、恒あるを要す。
三、識あるを要す。
この心構えにおいて、白川さんと中江丑吉には相通ずると思うのである。
引用した文章は、
『白川静著作集 第10巻』に折り込まれている月報の文章。
著者は、朝日新聞編集委員(当時)の河谷史夫さん。
文中の中江丑吉というひとは、
あまり知られていませんが、
大正・昭和期の中国学者で、中江兆民の長男として大阪に生まれました。
七高から東京大学に入学。
卒業後、北京に渡り、
ただ書物ばかりを読んで一生を暮らした。
朝の四時に起きて読書に没頭することを自身に課していた中江さんと、
肩の力が抜けた対談の折に、
じぶんの仕事を離れたならば、
ゆっくりと
『大航海時代叢書』を読んでみたいと語った白川さんには、
河谷さんが記すとおり、
共通した気概を感じます。
・染め布の揺れてとなりの南風(みなみ)かな 野衾
嗅覚は、うたがいようもなく美味しいものへの扉だけでなく、
記憶への扉をひらく最強の感覚であろう。
ある匂いをふとかぐだけで、
完全に忘れ去ったことをよみがえらせ、
記憶のつぼみを花開かせ、
なつかしい思いを胸にみたすことができる。
アロマは時間を超越させ、
われわれを揺籃期にまで旅させる例外的な力を持っている。
あらゆる経験が、
一九世紀末ドイツの心理学者ヘルマン・エビングハウス〔1850-1909〕
によってもたらされた嗅覚的記憶の「忘却曲線」という概念
を裏づけている。
つまり、
視覚的聴覚的な記憶の忘却曲線よりも嗅覚的な忘却曲線は
はるかになだらかな線を描く。
「記憶は、匂い以外のすべてをよみがえらせることができるが、
しかしある瞬間に結びついた匂いほど過去を完璧に再現できるものはない」
とナボコフは語っている。
(ジャン・ストレフ[著]/加藤雅郁・橋本克己[訳]
『フェティシズム全書』作品社、2016年、p.252)
会社を興してから外国へ行くことはなくなりましたが、
かつて訪れた国々のあれこれを、
テレビできれいな映像を見るよりも、
ふだん街を歩いていて、
不意にやってくるかすかな匂いに刺激され、
ありありと、
たとえばインドでのことを、思い出すことがあります。
わたしが書いた
『マハーヴァギナまたは巫山の夢』
は、
いわば匂いと記憶の小説
といっていいかと思います。
・片陰に人ら移動の駅ホーム 野衾
自宅近くに、ひとりで畳を製造している店があり、
前を通ると、
独特の匂いがしてきます。
この季節の気温、湿度もあってか、
先だっては、
しばし佇んで、その匂いを満喫しました。
匂いの主な成分は、
畳の材料である藺草でしょうか。
三橋美智也の『達者でな』の歌に
「わらにまみれて育てた栗毛」という文句が出てきますが、
わらの匂いもまたつよく郷愁を誘います。
匂いを感知するのは脳の古層だと聞いたことがあります。
人間が、
母の胎のなかで
人類進化のながい歴史をくぐって生まれる
ことを思えば、
植物だったかつての時代も何らか体験するのかもしれません。
さて、
本のことです。
このごろ少し色あせた紙の本を読んでいて、
なんとも懐かしい感じに襲われました。
懐かしさとともに読むことの悦楽。
それはたとえば、
ショーロホフの『静かなドン』のなかの、
藁がある場所での若い恋人たちのシーンを思い出させます、
不確かな記憶ではありますが。
具体的なイメージが浮かばなくても、
そして、むしろ、
こちらの方が本質的かとも思いますが、
紙の匂いによって脳の古層が刺激されながら読むということは、
ひょっとしたら、
じぶんのこれまでの経験のなかで、
経験と重ねながら読む
ことにつながっているのではないか、
そんな気さえしてきます。
哲学の本でも、
そういう匂いのなかで読むことにより、
ちがった風景が開けてくるようにも思います。
・振り向けばふるさと光る虹の中 野衾