大学生だったころ、
社会科教授法(たしかそんな名前)とかいう講座を受講しました。
岩浅農也という先生でした。
いわさ・あつや、
と読みます。
その先生の話で印象に残っているのは、
授業準備はどんなにしてもいいけれど、
教室に入る時には、その教案を捨ててかかりなさい云々。
すっかり準備したものを捨てる覚悟、
そのことがあってこそ、
目の前の生徒たちに言葉がとどき、
対話が豊かになる。
岩浅先生に言われたことは、のちに、
ピーター・ブルックの『なにもない空間』を読んだときにも思い出しましたが、
今回、
加藤常昭編訳による『説教黙想集成』を読んでいて、
まったく重なることが書かれてあり驚き、
また、教師時代の苦労と工夫を思い出しました。
説教の言葉は、
説教者の身についたものでなければなりません。
原稿に記録されたとしても、原稿がなくなったら思い出せない言葉であったり、
実際に説教するときにも、
原稿に縛りつけられたような話し方になっているのなら、
それは聴く者の耳に届く言葉とはなりにくいでしょう。
理想的なことを言えば、
十分に準備して発見し、獲得した言葉を、
原稿がなくても自由に語ることができるほどに体得する
ことが求められるのです。
たとえば私が、
教会学校の教師たちが子供たちに説教をするときに必ず求めることがあります。
それは、
原稿をきちんと書くこと、
しかし、実際に説教するときには、
その原稿を持たないで語ること、
しかも、その言葉が原稿からかけ離れたものではないことです。
(加藤常昭編訳『説教黙想集成 1』教文館、2008年、pp.67-68)
・踏み慣れし階段すずし帰宅かな 野衾