記憶のつぼみ

 

嗅覚は、うたがいようもなく美味しいものへの扉だけでなく、
記憶への扉をひらく最強の感覚であろう。
ある匂いをふとかぐだけで、
完全に忘れ去ったことをよみがえらせ、
記憶のつぼみを花開かせ、
なつかしい思いを胸にみたすことができる。
アロマは時間を超越させ、
われわれを揺籃期にまで旅させる例外的な力を持っている。
あらゆる経験が、
一九世紀末ドイツの心理学者ヘルマン・エビングハウス〔1850-1909〕
によってもたらされた嗅覚的記憶の「忘却曲線」という概念
を裏づけている。
つまり、
視覚的聴覚的な記憶の忘却曲線よりも嗅覚的な忘却曲線は
はるかになだらかな線を描く。
「記憶は、匂い以外のすべてをよみがえらせることができるが、
しかしある瞬間に結びついた匂いほど過去を完璧に再現できるものはない」
とナボコフは語っている。
(ジャン・ストレフ[著]/加藤雅郁・橋本克己[訳]
『フェティシズム全書』作品社、2016年、p.252)

 

会社を興してから外国へ行くことはなくなりましたが、
かつて訪れた国々のあれこれを、
テレビできれいな映像を見るよりも、
ふだん街を歩いていて、
不意にやってくるかすかな匂いに刺激され、
ありありと、
たとえばインドでのことを、思い出すことがあります。
わたしが書いた
マハーヴァギナまたは巫山の夢
は、
いわば匂いと記憶の小説
といっていいかと思います。

 

・片陰に人ら移動の駅ホーム  野衾